第8話「残響に残る声」
「今日は、あたしが視る番」
早乙女が、ダンジョンの入口で、短くそう言った。
翌朝、九時四十分。池袋東口から三キロ、南池袋第二ダンジョン、第四層。岩礁クラン所属の戸川悠平が、付与刀を暴走させた事故現場。庁の立入制限が、昨日の午後に解除されたばかりだった。
辰巳耕司との面会は、急遽、明日に延期された。理由は、辰巳側からの申し入れ。
蓮田はその一本の電話を受けた後、すぐに早乙女とわたしの現場再訪を指示した。「先に、現場を視ておけ」。昭和の稟議書的な語順で、彼はそう言った。
「二十四時間、過ぎてません?」
「ギリギリ。事故から五日経ってるけど、現場保全で庁が魔素濃度を固定してる。閉鎖エリアだと、残響の劣化が極端に遅くなる」
「どのくらい保つの」
「最大七日。初耳だと思うけど、公表してない技術情報」
早乙女は、首元の魔素濃度計コインを、シャツの中にもう一段、深く押し込んだ。
*
第四層分岐点。
ここが、戸川の付与刀が暴走した場所。岩盤の一部が黒く焼け、床のコンクリートに放射状の焼け跡が残っていた。
破片の一部は、庁の証拠保管庫に移送されているが、現場の痕跡自体は、そのまま残されている。
早乙女は、焼け跡の中心で、両膝をついた。
「【残響追跡】」
いつもより、低い声だった。
岩盤の表面に、薄い青の膜が広がっていく。光の粒が、散在して、やがて三つの人影を形作った。——戸川悠平。そして、戸川の左右に、もう二人。
「三人、いた?」
「書類では、単独戦闘、って書いてあった」
「嘘だ」
早乙女の声は、確信を帯びていた。
光の中の、左側の影は、小柄な男。背丈百七十。右手に大剣を構えていた。
右側の影は、それより長身、百八十を超える。全身鎧、両手に双刃槍。いずれも、戸川より装備が重く、格上の戦力。
「左、大剣。右、双刃槍。この二人、同時に同じパーティーで動いたっていう記録、岩礁の申告には一切ない」
「誰ですか」
「装備の影シルエットから、見当はつく。左が、副代表の薄井達郎。右が、辰巳耕司本人」
クランの中核二人が、末端の戸川と同じ現場にいた。そして、書類から消されていた。
早乙女の指先が、空中をなぞる。光の粒が、三人分の動きを再生し始めた。
戸川が、付与刀を構える。薄井が、その後ろに立つ。
辰巳が、さらに後ろ、岩陰に隠れる位置。ミノタウロス種が、通路の奥から現れる。
戸川が、前に出て斬りかかる。刀身が、途中で青白い光を噴き上げ、暴走する。
戸川が、弾き飛ばされる。薄井は、後ろに飛び退く。辰巳は、岩陰からさらに奥へ下がる。
「戸川一人に、突っ込ませてる」
「意図的な……」
「ええ、意図的な囮、犠牲の配置」
早乙女の指が、光の再生を、ミノタウロスが倒れるところまで進めた。倒したのは、薄井だった。
大剣の二撃で、首を落とした。
「戦闘は、薄井が決めてる。辰巳は、後ろで見てる」
「戸川は、囮役として、破損前提で突入させられた」
書類上、戸川は『単独で戦闘し、装備が暴走して破損し、本人は軽傷』という物語になっていた。
実際は、クランが組織的に、戸川の装備を破損させ、保険金を請求するという、計画的な詐欺。違法素子X型を装着させたのも、破損させやすくするため、だったのかもしれない。
*
光の再生が終わる寸前、早乙女の指先が、止まった。
画面の隅で一瞬だけ、別の残響が薄く重なっていた。五日前のものではない、もっと古い、ほとんど消えかけた残響。長期閉鎖エリアだからこそ、辛うじて残っていた、古い魔素の痕跡。
「待って」
「どうしました」
「これ、もっと古いやつが、うっすら視える」
早乙女の視線が、岩盤の別の地点に移った。彼女の掌が、そちらに押し当てられる。
新しい光の粒が、別の人影を描き始めた。——今度は、四人。うち一人は、警察官の制服、黒のパンツスーツ姿の女性。若い。二十五歳前後。
早乙女の指先が、震えた。
「——あたしだ」
その女性は、三年前の、早乙女灯里本人だった。今の彼女より、少し髪が長い。
頬の線が、もう少し柔らかい。三人の男と対峙して、拳銃を構えている。
「……ここ、あたしが来た現場だ。三年前、最後の事件」
「事件、というと」
「違法素子密売の摘発。あたしが現臨で入って、被疑者三人を確保寸前までいった。でも、その直後、あたしが別件で証拠改竄の容疑をかけられて、現場から外された」
光の中の、三人の男のうちの一人の顔が、わたしにも視認できた。——四十過ぎ、角ばった顎、首筋の火傷の跡。辰巳耕司、の、三年若い姿。
早乙女の息が、短く止まった。
「あたしの拳銃、あのとき、辰巳のほうに向いてる」
「確保寸前、だったんですね」
「ええ。確保寸前で、あたしが『証拠改竄』の内部通報を受けて、現場を離脱させられた。離脱した瞬間に、辰巳は逃げて、事件は未解決になった」
「通報の、通報主は」
「……警視庁内部。当時の、上司」
早乙女の声が、薄く、震えていた。——つり革を三回叩く癖は、膝の上の拳で、出ていた。
「あたしを冤罪で外したのは、辰巳を逃がすためだった、ってこと?」
「現時点では、状況証拠です」
「でも、視えた」
彼女は、光の中の自分の姿を、もう一度、指でなぞった。光の指先に、彼女の指先が重なった。
「あのとき、あたし、捕まえられる距離にいた。——あと、三歩だった」
*
光の残響が、薄れていった。
第四層の、岩盤の焼け跡の上に、早乙女とわたしだけが、膝をついて残っていた。ダンジョンの湿った空気に、硫黄と焦げた付与素子の匂いと苔の匂いが混ざっていた。
早乙女は、膝をついたまま、しばらく動かなかった。
わたしは、彼女の肩に、手を置かなかった。代わりに、封筒から、水のペットボトルを一本、取り出して、彼女の隣に置いた。
早乙女の好きなブランドのやつだった。シェルター行きの車の中で、助手席のドアポケットに三本、同じ銘柄が並んでいた。
「ありがとう」
「いえ」
「泣かないよ、あたしは」
「知ってます」
「でも、少し、黙らせて」
「はい」
早乙女は、ペットボトルの蓋を、二度、回して開けた。蓋を開ける音が、第四層の湿った岩壁に、小さく反響した。
*
三豊ビル北館に戻ったのは、十七時四十分。
蓮田は、デスクで古い新聞の切り抜きをまとめていた。三年前の、違法素子密売摘発の記事。
見出しには『摘発未遂、主犯逃走』、続報記事では『警視庁内部、証拠改竄疑惑、担当刑事を停職処分』。
停職処分を受けた刑事の名前は新聞では伏せられていたが、初報の一段組に『早乙女刑事(当時二十五)』の名前が一度だけ出ていた。
「これ、読め」
「蓮田さん、調べたんですか」
「——辰巳が面会申し入れてきた時点で、調べた。お前らがダンジョンに潜ってる間にな」
蓮田は、新聞を早乙女の方へ滑らせた。彼女は、受け取らず、ただ視線だけを落とした。
「記事、捨てないで、取ってあった」
「三年、ですか」
「この業界、いつか名前が上がってくるやつは、だいたい、三年以内に上がってくる。捨てない癖がついてる」
蓮田は、マグカップを持ち上げて、ようやく、ほんの一口、口をつけた。冷めきったコーヒーのはずだった。
彼は、小さく、顔をしかめた。
「早乙女」
「はい」
「明日、辰巳に会うのは、宇津木と俺でやる。お前は、外れろ」
「なぜ」
「お前がいると、辰巳は口を閉ざす。それと、お前の感情が、書類の色を見る邪魔になる。宇津木、そうだろ」
「はい」
わたしは頷いた。
早乙女は、しばらく黙って、それから、デスクの縁を、三回、叩いた。
「分かった。外れる。でも」
「でも?」
「——まだ、あの事件は終わってない」
彼女は、新聞の切り抜きの一枚を、指先で押さえた。三年前の、自分の名前が載った紙面の、記事の余白の部分だった。
わたしは、眼鏡の位置を直して、机の上の封筒を、そっと閉じた。
封筒の角は、もう、反り返らなくなっていた。




