第10話「桐生鷹志」
「初めまして。——雷電クラン副代表、桐生鷹志と申します」
翌日、十四時二十分。三豊ビル北館、十階の大会議室。
男は書類を一枚も持たずに入ってきた。
身長百八十三、肩幅広め。オーダーメイドのダークグレーが布の落ち方で分かる。
ボルドーのネクタイは結び目まで完璧。黒の革靴の爪先に、薄く光が乗っていた。
香水の匂いが会議室の空気をわずかに変えた。柑橘とウッディ。嫌味にならないが存在を主張する濃度。
わたしは立ち上がり、名刺を差し出した。彼は柔らかい笑みで受け取り、一拍置いてから、自分の名刺を返した。
金文字の印字。『雷電グループ株式会社 副代表執行役員 桐生鷹志』。
「突然のアポイントで失礼しました」
「ご丁寧にお気遣いなく」
「例外案件係、お忙しいでしょうに」
桐生は椅子を引いて、ゆったりと座った。手元には何も置かない。
手ぶらの完全な丸腰の姿勢。これがかえって威圧になることを、彼は、知っていた。
蓮田は今日も同席していた。奥の席で、黙ってマグカップを抱えている。
飲まない。飲まないが、握っている。
*
「今日は、ご挨拶に伺ったまでです」
桐生は微笑を保ったまま言った。
「岩礁の件、うちの関連会社の雷電リスクが再保険を引き受けていた関係でいくつかご迷惑をおかけしたかもしれない。直接ご挨拶しておこうと」
「雷電リスク・マネジメント、ですね」
「よくご存じで」
「契約書の末尾にお名前が」
わたしは昨日までに用意した契約書の写しを会議机の端に置いた。桐生は視線をそちらに一瞬だけ向けて、すぐに戻した。
「契約書、よく読まれる方ですね」
「書類を信じたいので」
「いい動機です」
彼の笑みの輪郭は崩れなかった。崩れないまま、口調だけがほんのわずか柔らかくなる。
営業と交渉のプロの間合いだった。
「宇津木さん」
「はい」
「率直に申し上げます。雷電リスクの再保険取引は今回の岩礁案件を含め、全て正規の商取引です。不適切な資金還流の事実は一切ありません。これはわたしから口頭で、ここでお約束します」
わたしの視界の中で、彼の言葉が宙に浮かんだ。
——一切ありません。
その一文の上に色が視えた。
青ではない。黄でもない。赤でもない。黒でもない。——四色のどれでもない、ぼやけた複合色。濃いめの灰色に赤と黒がわずかに混ざった、見たことのない濁色。
これが口頭言質の色だろうか。書類ではなく、口の中から出た言葉の真偽。
視界の端が軽く震えた。スキルが、慣れていない情報を処理しようとして、軋んでいた。
「結構です」
わたしは黒縁眼鏡の奥で目を細めた。
「では確認させていただきます。桐生さんはいま『雷電リスクの再保険取引には不適切な資金還流の事実は一切ない』とお約束されました」
「はい」
「このご発言を録音しております。会議室の備え付けの録音機です。ダンジョン保険業界の業務連絡は、原則として全て録音記録を残すという社内規程がありますので」
桐生の微笑が一ミリ動いた。
「ええ、構いません」
「ありがとうございます。確認を続けます。『一切ない』と断言される根拠はどちらにありますか」
「根拠というと」
「雷電リスク内部の取引監査記録、あるいは監査法人の報告書などです」
桐生は少し考えた。一秒。二秒。三秒。
宙に浮かんだ言葉の濁色が、少しずつ赤に寄っていくのが視えた。まだ発言されていない次の言葉の色が、予告として、わずかに先に出る。
初めての感覚だった。
「監査法人の報告は年次でクリーンな結論が出ています」
——赤。
赤が濃く、彼の発言の上に重なった。
クリーンという語の上に、特に濃い赤。監査法人の報告書はクリーンではなかった。
あるいは、報告書自体が存在しないか、別の結論を含んでいた。
「監査法人の名前を伺っても」
「失礼、社外秘ですので」
「社外秘というのは雷電グループの内部規程でしょうか」
「……ええ」
桐生は指を組んだ。組み方に、少しだけ力が入った。
わたしは封筒からペンを取り出し、机に置いた。昨日早乙女に指摘されたばかりだった。
『あんた、スキル使ってるとき右手でペンを三回転がす癖がある』と。自覚はなかった。
そのペンをわたしは今、三回、意図的に転がした。
桐生の視線がペンに一瞬落ちた。——気づかれたとわたしは思った。
この男は、スキルの存在を、どこかの段階で既に知っている。
*
「桐生さん」
「はい」
「もうひとつ確認を」
「どうぞ」
「雷電リスク・マネジメントの代表取締役は桐生さんご自身でいらっしゃいますか」
「いえ別の者です」
青。
「代表の方は雷電グループのどなたでしょうか」
「わたしの父の弟です」
青。
「雷電リスクの年次再保険契約の承認権限はどなたにありますか」
「代表および雷電グループ本社の財務担当副社長」
青。
「では岩礁クランの装備破損案件八件、申請総額一億超。この再保険引受を雷電リスクが承認した際、承認者はどなたでしたか」
「……確認しないとお答えできません」
黒。
濃い、深い黒。
わたしはペンをもう一度三回転がした。そして眼鏡越しに桐生を見た。
「桐生さん」
「はい」
「最初に『不適切な資金還流の事実は一切ない』とお約束されました。しかし、直後のご質問で、再保険承認者を『確認しないと答えられない』とおっしゃいました」
「それは別の話です」
「別の話でしょうか。『一切ない』と断言できるためには八件の再保険引受の経緯をご存知であるはずです。経緯をご存知であれば承認者は思い出せるはずです」
桐生の笑みが、初めて浅くなった。目尻の皺が、静かに引いた。
「——揚げ足取りですね」
「保険査定です」
「失礼、失言でした」
「いえ、記録には残りますが正式な異議申し立てはいたしません」
わたしはペンを机の上に置いた。三回転がす癖はもう意図的には出さなかった。
*
桐生はしばらく黙った。
その沈黙の中で、彼はわたしを見ていた。値踏みの目でも怒りの目でもない。ただ、見ていた。
昨夜氷室がわたしに向けたのと似た眼差し。「読む」眼差しだった。
やがて、彼は微笑を完全に取り戻した。最初に会議室に入ってきたときと、まったく同じ、磨き抜かれた紳士の笑みだった。
「宇津木さん」
「はい」
「今日のところはこの辺で失礼します」
彼は立ち上がった。椅子を、音を立てずに戻した。
「最後に一つ」
「どうぞ」
「この案件、もしよろしければ降りていただけませんか」
わたしは眼鏡の位置を直した。
——降りるという言葉を、昨日からこれで三度聞いた。辰巳から。氷室から。そして桐生から。
三人の人間が、同じ言葉で同じ方向からわたしに圧を加えていた。
わたしはペンを取り上げた。
ペンの尻を机の上で軽く一度だけ叩いた。
「桐生さん」
「はい」
「この案件、わたしが降りる理由はありません」
会議室の空気が一拍止まった。
桐生の笑みは崩れない。崩れないが、目尻の皮膚の奥で、何かが別の色を含んだ。
S級探索者の気配。雷属性持ちの、空気の張り詰め方。肌のうぶ毛が、わずかに立ち上がる。
それは半秒で消えた。
彼は深く頭を下げた。
「失礼しました。ご挨拶できて光栄でした」
出て行く彼の背中は、入ってきた時と同じ、磨き抜かれた紳士のそれだった。会議室のドアが、音もなく閉まった。
蓮田がマグカップをゆっくり机に置いた。
「——肝が据わってきたな、宇津木」
「……震えてますよ、手」
わたしはペンを握ったままの右手を、机の下に引っ込めた。指先が細かく震えていた。
早乙女がくれた昨日の缶コーヒーのときと同じ種類の震え方だった。
蓮田は笑わなかった。
代わりに、わたしのマグカップに、新しいコーヒーを注ぎ直してくれた。ブラック。熱い。
「飲め」
「……いただきます」
窓の外で、四月下旬の夕方の光が、隣のビルの壁面を橙に染めていた。十六時半。
第三課の蛍光灯が今日もまた一本だけわずかにちらついていた。
机の端で、『雷』と『岩』の付箋の横にわたしはもう一枚新しい付箋を貼った。
『桐』。
三枚の付箋が、夕日の中で静かに並んで揺れた。




