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ダンジョン保険の例外案件係に左遷された俺、【真贋鑑定】で業界の闇を全部暴く  作者: 夜摩 高嶺
第一部『例外案件係の査定員』

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第11話「降板の代償」

「お前、あの男がどれだけ重いか分かってるのか」


 翌朝、九時七分。蓮田が出勤するなり、マグカップも置かずに言った。


 三豊ビル北館十二階の西端。第三課のドアを開けた瞬間から、空気が違う。


 昨日まで埃の匂いだった部屋に、今朝はコーヒーの焦げた臭いが充満していた。蓮田のマグカップの底で、昨夜から放置された液体が煮詰まって乾いている。


「重い、というのは」


「雷電クラン。S級が三人。年間保険料総額、十四億。うちの全契約の六パーセントだ」


 蓮田は椅子に座らないまま、窓際に立った。ブラインドの隙間から差す四月の朝日が、彼の白髪交じりの横顔を照らす。五十歳の顔に刻まれた皺が、いつもより深い。


「それをお前は昨日、正面から突っぱねた」


「突っぱねた、のではなく」


「突っぱねたんだよ」


 蓮田が振り返った。怒りではない。諦めでもない。確認の目だった。


「自覚はあるな」


「……はい」


 わたしは眼鏡を外して、レンズを拭いた。布の繊維がレンズ面を擦る小さなきゅっという音。


 昨日の桐生鷹志の笑顔がまだ網膜に残っている。あの柑橘とウッディの混合香。一ミリだけ動いた微笑の輪郭。S級探索者の気配が肌のうぶ毛を逆立てた、あの半秒間。


「やれやれ」


 蓮田はようやく椅子に座った。スチール脚が床タイルを擦り、がりっと鳴る。


「まあいい。俺が根回しする。お前は何もするな。今日一日、頭を低くしとけ」


「承知しました」


「嘘つけ。お前の『承知しました』は、承知してない時の顔だ」


 返す言葉がなかった。



 十時を過ぎた頃から、内線が鳴り始めた。


 一本目は総務の岩田。二本目は経理の誰か。三本目で、蓮田の声が変わった。


「はい。はい。承知しました」


 受話器を置いた蓮田の顔は、平坦だった。感情を消した顔だ。


「黒川部長からだ」


 損害査定部長、黒川。わたしは直接会ったことがない。入社時の辞令に名前があっただけの存在だ。


「本社企画部から照会が来てる。『雷電関連案件の査定について、慎重な取り扱いを求める』」


「慎重な取り扱い」


「事実上の足止めだ。岩礁の件は決着したが、雷電本体への追及は控えろ、という意味だろう」


 蓮田は受話器のコードを指先で弾いた。ぱちん、と乾いた音が鳴る。


「本社企画部主任の氷室って名前、お前の報告書にあったな」


「ええ。氷室瑞樹」


「そいつが照会の起案者だ。黒川部長に直で上げてきた」


 空調のファンが低く唸っている。天井のダクトの中で風が回る音。


 蛍光灯の一本が、今日もちらついていた。わたしのデスクの端に貼った三枚の付箋が、空調の風で微かに揺れる。『雷』『岩』『桐』。昨日の夕日の中で貼った、三枚。


「蓮田さん」


「何だ」


「わたしは、降りません」


 蓮田は、マグカップの焦げ臭い残骸を流し台に運びながら、背中越しに言った。


「知ってる。お前が降りるなら、昨日降りてた」



 十一時二十分。早乙女が出勤した。


 いつもの灰色のパーカーに黒のカーゴパンツ。左手に缶コーヒー、ジョージアの微糖。右手にA4の封筒を一つ。


「聞いた?」


「何を」


「桐生の件。七階の損害調査部で、朝から噂になってる。『例外案件係が雷電の副代表と揉めた』って」


「揉めてはいませんよ。査定をしただけです」


 早乙女は缶コーヒーのプルタブを開けた。金属の軽い音が部屋に響く。


「あたしは降りない」


 短い断定。いつもの口調だった。


「……ありがとうございます」


「礼は要らない。仕事だから」


 早乙女は自分のデスクに座り、封筒の中身を広げた。岩礁案件の残務処理だろう。戸川の違法素子立件に伴う証拠書類の追加整理。


 わたしは彼女の横顔を一瞬見て、視線を戻す。茶色のショートヘアが後頭部で跳ねている。いつも通りだ。


 早乙女が指先で膝を二度叩いた。考え事をするときの癖。


「桐生、今朝、ロビーで見かけた」


「今朝?」


「八時四十分。一階のエレベーターホール。本社企画部の方に上がっていった」


 わたしは手を止めた。桐生が今朝、この三豊ビルに来ていた。本社企画部へ。黒川部長への照会と、時間軸が重なる。


「直接圧力をかけに来た、ということですか」


「さあ。証拠はない」


 早乙女は缶コーヒーを一口飲み、窓の外に目を向けた。


「でも匂うね。帳場の匂いだ」


 いつも通りでいてくれることが、今朝はありがたかった。



 午後二時。有坂しおんから内線が入った。


 三豊社員寮三階の自室から、という口ぶりだった。声が小さい。


「宇津木さん、その……すみません、ちょっと見てほしいものが……」


「何ですか」


「社員寮の掲示板に、新しい案件の回付票が貼ってあって……あたし、つい見ちゃったんですけど」


 有坂の声が、さらに小さくなる。


「雷電クランのA級探索者、嶋崎修さんの……重傷保険金申請。三千五百万円」


 わたしの指がペンの尻を机に一度叩いた。コツ、と乾いた音。


「有坂さん。その回付票、宛先は」


「……第三課、です。例外案件係」


 受話器の向こうで、有坂が息を吸う音。


「偶然、ですかね……?」


 わたしは蓮田を見た。蓮田は新しいマグカップにコーヒーを注ぎ直していた。湯気が立つ。今度はちゃんと淹れたやつだ。


 ポットの注ぎ口から細い湯気が、蛍光灯の光の中をくゆらせて消える。キリマンジャロの酸味が焦げ臭さの残る部屋に混ざる。


「有坂さん、ありがとうございます。書類が届いたら確認します」


 電話を切った。早乙女がデスクから顔を上げていた。聞こえていたらしい。


「蓮田さん」


「聞こえてた」


 蓮田はコーヒーを一口啜り、マグカップを机に置いた。置く音が妙に静かだった。


「嶋崎修。雷電クラン攻撃部隊副隊長。A級、三十四歳。新宿第七ダンジョン三十二層で重傷。昨日の今日で、うちに回ってくる案件じゃない」


「つまり」


「誰かが意図的に回した」


 蓮田の目が、窓の外に向いた。午後の日差しが、隣のビルの壁面に白く反射している。


「お前に、触らせたい奴がいる」


「誰が」


「分からん。だが、偶然で来た案件は、この部署には一件もありませんよ」


 早乙女が、拳で自分の膝を軽く叩いた。一度だけ。


「面白くなってきたじゃん」


「面白い、で済めばいいんですが」


「済まないから面白いんだよ」


 わたしは、蓮田の言葉を、付箋に書くことさえしなかった。書く必要がない。


 この部署に偶然はない。最初から知っていた。



 十六時。書類が届いた。


 茶封筒。厚さは五ミリほど。保険金請求書、診断書、事故報告書、クラン証明書。宛名に『損害査定部 第三課』の印字。


 わたしは封を切り、一枚目を開いた。


 保険金請求書。請求者:嶋崎修。所属:雷電クラン攻撃部隊。ランク:A級。請求額:三千五百万円。事由:新宿第七ダンジョン三十二層における魔獣との戦闘による左腕粉砕骨折。


 診断書の写真には、左前腕部の粉砕骨折痕がレントゲンで映されていた。骨の断面が五箇所で割れている。


 A級の身体強度でこれだけの損傷。尋常な衝撃ではない。


 一行目に、わたしの視界が反応した。


 ——赤。


 『魔獣との戦闘による』の七文字の上に、はっきりとした赤が重なっている。虚偽。この一文は、嘘だ。


 二行目。『三十二層にて単独探索中』。ここにも色が浮かぶ。黄色。主観の誤認。


 嶋崎自身は単独だったと思い込んでいるか、あるいはそう報告するよう言われたか。


 わたしはペンの尻で、机を、もう一度叩いた。コツ。


 三枚の付箋——『雷』『岩』『桐』——の隣に、四枚目を貼る。


 ——『嶋』。


 窓の外では、四月下旬の夕暮れが始まろうとしていた。十六時十五分。隣のビルの壁面に、今日も同じ橙色が差す。


 蛍光灯のちらつきが、また、始まった。四枚の付箋が、空調の風に、揃って揺れている。

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