第12話「A級の代償」
嶋崎修。雷電クラン攻撃部隊副隊長、A級、三十四歳。
翌朝、わたしは書類を三度読み返していた。八時四十五分。まだ蓮田も早乙女も来ていない第三課のデスクで、インクの匂いが鼻に残る。
安い複合機のトナー臭。書類の紙質は上等だが、印刷は社内の量産品だ。
事故報告書の概要。新宿第七ダンジョン三十二層。四月二十一日十四時三十分頃。単独探索中、B級魔獣ストーンゴーレム亜種の不意打ちにより左前腕部を粉砕骨折。
搬送先は新宿ダンジョン管理局付属病院。入院十二日。現在もリハビリ継続中。
【真贋鑑定】を起動する。
視界に色が浮かぶ。
『B級魔獣ストーンゴーレム亜種の不意打ち』。赤。虚偽。
『三十二層にて単独探索中』。黄。主観の誤認。
『十四時三十分頃』。青。真実。
『左前腕部粉砕骨折』。青。真実。
怪我は本物だ。時刻も本物。しかし原因が嘘。
そして「単独」は本人がそう思い込んでいるだけ。つまり嶋崎は自分を怪我させた真の原因を知らない。
わたしはペンの尻を机に一度叩き、メモ帳に整理を書き込んだ。
怪我は本物だが、原因が嘘。嘘をついているのは嶋崎本人ではなく、この書類を作成した人間。
*
九時十二分。蓮田が出勤した。今朝のマグカップは洗われている。
昨日の焦げ臭は消えて、代わりに廊下の自販機で買ったらしいブラック缶を手にしていた。ワンダ、モーニングショット。
「進捗は」
「書類上の虚偽箇所を特定しました。原因の記載が嘘です。怪我自体は本物」
「つまり保険金詐欺、というわけでもないのか」
「微妙なところです。怪我が本物でも、原因が虚偽なら、免責条項に抵触する可能性がある」
蓮田は缶コーヒーのプルタブを開けた。ぷしゅ、という炭酸の抜ける音。ブラックのはずだが。
「この書類を書いたのは誰だ」
「クラン証明書の発行印は雷電クラン総務部。嶋崎本人の自筆署名は、保険金請求書の末尾だけです」
「本人は知らんのかもしれんな。クランに言われるまま署名しただけ、か」
蓮田の推理はわたしの結論と一致していた。このベテランは、スキルがなくても文脈を読む。三十年の経験で色が視える男だ。
*
十時四十分。内線が鳴った。外線ではない。社内の、しかし番号が見慣れないものだった。
蓮田が取り、二言三言交わして受話器をこちらに向けた。
「お前宛てだ。ダンジョン庁の芝山」
芝山幸雄。ダンジョン庁監察官。百七十センチ超の体躯。
眼鏡は……いや、眼鏡はわたしだ。芝山はかけていない。岩礁案件で一度だけ接触したフランクな口調の公務員。
「お電話代わりました。宇津木です」
「ああ、宇津木さん。芝山です。突然すみません」
声は軽い。だが、その軽さの裏に、わずかな急ぎがある。
「嶋崎修の件、そっちに回ったって聞いたんだけどさ」
「どこで聞かれたんですか」
「まあ、うちも引っかかってたんだよ、あの案件。ダンジョン庁にも事故報告が上がってきてて、こっちの監察チームが『不自然だ』って旗を立ててた」
芝山の声のトーンが少し低くなる。
「協力させてもらえないかな。情報交換、ってことで」
「ありがたいお申し出です。ただ、蓮田課長の許可が要ります」
「蓮田さんなら、もう話は通してある。電話を替わる前に、二秒で了承もらった」
振り返ると、蓮田が缶コーヒーを飲みながら頷いていた。二秒で了承。このベテランの判断速度にはもう驚かない。
「分かりました。芝山さん、一度お会いしましょう」
「明日の昼、どうかな。新宿の庁舎食堂でいいよ。カレーがまあまあ食える」
「承知しました。十二時で」
電話を切った。受話器を置いたとき、わずかに指が汗ばんでいた。
芝山の声には、焦りと、もう一つ、安堵に似た何かが混ざっていた。誰かにこの案件を任せたがっている。あるいは、自分の手から離したがっている。
どちらなのか、今の段階では判別がつかない。
だが、一つだけ確かなことがある。ダンジョン庁の監察官が動いているということは、この案件は保険金だけの問題ではない。刑事事件の匂いがする。
「蓮田さん」
「何だ」
「芝山さんは、なぜうちに来るんでしょうか。ダンジョン庁には独自の捜査権限があるはずです」
蓮田は空になった缶を指先で弾いた。からん、と軽い音がデスクに響く。
「単独では動けない案件なんだろう。相手が雷電だからな。庁内にも雷電の息がかかった人間がいるんだろうさ。頭越しに動きたい」
「それで、うちを使う」
「利用されることを恐れるな。利用関係は、こっちも使えるってことだ」
蓮田は立ち上がり、窓際に向かった。ブラインドの隙間に指を差し込み、外を覗く。
「……まあ、芝山って男は悪い奴じゃない。ジャケットに煙草の匂いを染み込ませたまま会議に出てくるような昔気質だ。ただ、監察官ってのは、最後には組織の論理で動く。それだけ覚えとけ」
*
十一時。早乙女が出勤した。
今日はパーカーではなく、黒のウィンドブレーカー。動く気でいる、という服装だった。
「嶋崎の件、概要」
わたしは三十秒で要点を伝えた。早乙女は立ったまま聞き、缶コーヒーも買わずに、自分のデスクの引き出しからダンジョンマップを取り出した。
折り畳みの使い込まれた紙。新宿第七ダンジョンの構造図。
「三十二層、か」
「ご存知ですか」
「あたしのランクで行けるのは二十五層まで。でも地図は持ってる。元同僚が測量班にいた」
早乙女は地図を広げ、三十二層のフロア構造を指で辿った。南北に分岐する通路。東側に大広間。
西側に小部屋が三つ。
「ここ、残響追跡が使える。あたしのスキルなら、二十四時間以内の痕跡を拾える」
「二十四時間以内、ということは」
「明日行こう」
早乙女の指先が地図の三十二層の分岐点を叩いた。コツ、と爪の音。
「事故から既に五日経ってる。残響の精度は落ちてるけど、上書きされてなければ、まだ読める」
「上書き?」
「誰かが後から同じ場所を通ると、古い痕跡の上に新しいのが被さる。意図的に消す方法もある。だから、早いほうがいい」
わたしは頷いた。芝山との約束は明日の昼。ダンジョンに入るなら午前中か、午後か。
「芝山さんとの面会が十二時です。ダンジョンは午後になりますが……」
「朝一で行く。六時半にゲート集合。芝山には午後報告でいいだろ」
早乙女は地図を折り畳み、引き出しに戻した。
「有坂にも声かける。回復要員がいないと、三十二層は厳しい」
「C級の早乙女さんでも、三十二層は……」
「管理局に特別入場申請を出す。査定官同行の公務扱いなら、ランク制限は緩和される。あたしが護衛、有坂が回復、あんたが査定。三人なら通る」
早乙女は既に手続きの段取りを頭の中で組み上げている。元警察官の動きだった。初動の速さはこの女の最大の武器だ。
「宇津木。一つだけ」
「何ですか」
「三十二層は空気が重い。魔素濃度が地上の八倍。あんた、前に第三層で耳鳴りしてただろ。体調が崩れたら即言え。帰還の判断はあたしがする」
「了解です」
「了解じゃなくて、約束して」
早乙女の目が一瞬だけ硬くなった。黒のウィンドブレーカーの下で、ショートソードの鞘留めを確認するように腰に手を当てる。
「……約束します」
わたしはペンの尻を机に一度叩いた。
怪我は本物なんです。——嘘をついているのは、怪我をさせた相手のほう。
それを証明するために、明日、ダンジョンに潜る。丸腰の査定官が。書類しか読めない人間が。
——いや、書類を読むことがわたしの武器だ。ダンジョンの中にも、読むべきものがあるはずだ。
眼鏡のブリッジを親指と人差し指で挟み、位置を直す。レンズ越しに見える付箋は四枚。『雷』『岩』『桐』『嶋』。
五枚目を貼る日はそう遠くないだろう。




