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ダンジョン保険の例外案件係に左遷された俺、【真贋鑑定】で業界の闇を全部暴く  作者: 夜摩 高嶺
第三部『シンジケート』

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第78話「監察官の立場」

 堤が最初に口を開いた。


「やっぱりか」


 十二月十九日、木曜日。竹橋合同庁舎三階の小会議室。朝八時半。始業前。まだ廊下に人の気配が薄い時間帯を選んだ。


 わたしは昨日の芝山との面会を報告した。手順論が本物であること。その下に黒があったこと。保留要請の発信元が芝山班長名義であること。


 堤は驚かなかった。紙コップのコーヒーを持ったまま、窓の外を見ている。竹橋の朝。内堀の水面が冬の日差しで白く光る。


「沢渡はどう思う」


 沢渡は眼鏡のブリッジを指で押し上げた。小柄な体がパイプ椅子の上で硬くなっている。


「……正直に言えば、信じたくない、です」


 声が揺れていた。沢渡が感情を見せるのは珍しい。公認会計士は数字で語る。数字が揺れないから、声も揺れない。それが沢渡梢という人間だった。

 だが今日は揺れている。眼鏡を外して、レンズを布で拭く。いつもの動作だが、手の速さが違う。拭くというより、握っている。


「芝山さんがわたしたちを査察班に入れたのは、不正を暴くためだと思っていました。なぜ班を作ったんですか。自分で調査を始めて、自分で止めるなんて」


「管理するためです」


 わたしは言った。


「芝山さんは最初から管理者です。不正を暴くためではなく、不正の調査がどこまで進んでいるかを管理するための班。わたしたちは調査員であると同時に、管理対象だった」


 沢渡の手帳を持つ手が、わずかに震えた。


「芝山さんの師匠は神崎良一です。ダンジョン安全推進機構の理事長。シンジケートの行政側の頂点にいる人間。芝山さんは、神崎の利益を守る門番です」


 堤が紙コップを机に置いた。


「神崎が芝山を使って査察班を立ち上げさせた。調査の名目で情報を集め、どこまでバレているか把握する。進みすぎたら手順論で止める。——組対時代に何度も見た手口だ。内部監察を味方につけるのは、組織犯罪の基本形だよ」


 沢渡が目を閉じた。五秒。それから眼鏡をかけ直した。レンズの奥の目が、数字を扱う目に戻っている。


「分かりました。——では、これからどうしますか」


「芝山に確認を取ります。直接」


 堤が振り向いた。


「確認。どうやって」


「神崎の名前を出します。芝山さんが神崎良一とどういう関係にあるのか、正面から聞く。反応を見れば、わたしの目で判断できます」


「危険だ。芝山に手の内を晒すことになる」


「昨日の時点で、もう晒しています。沢渡さんの照会を止めた時点で、芝山さんはわたしたちの調査範囲を把握している。隠す段階は終わりました」


 堤は黙った。紙コップのコーヒーを見つめている。冷めた液面に天井の蛍光灯が歪んで映っている。


「分かった。——だが、一対一でやれ。俺と沢渡は同席しない。芝山が警戒するレベルを上げないほうがいい」



 午後五時半。竹橋合同庁舎の屋上。


 十二月の風が吹いていた。庁舎の屋上は元喫煙スペースだが、十月に全面禁煙になってからは誰も来ない。灰皿の撤去跡だけが残っている。コンクリートの床に、四角い跡。その隣に室外機が二台、低い音で回っている。


 芝山が屋上のドアを開けて出てきた。


 わたしが呼んだ。「少しお話ししたいことがあります」と。芝山は「屋上でいいかい。空気を吸いたい」と答えた。


 冬の空は暗い。日没は四時半。今は群青色の空に、遠く東京タワーのオレンジが滲んでいる。風が強い。芝山のネクタイが横に流れた。わたしのコートの裾も揺れている。屋上のフェンスが風を受けて、低い振動音を出していた。


「宇津木さん。何の話だい」


 穏やかな声。屋上に出ても芝山の態度は変わらない。


 わたしは【真贋鑑定】Tier 1を起動した。色が視界に滲む。


「芝山さん。わたしは、あなたを信じていました」


 芝山がわたしを見た。眉が動く。微かに。


「今も信じていいよ。——わたしは、間違ったことはしていない」


 青。芝山は本気でそう信じている。


 だが、青の上に黄色が薄く被さっていた。黄——主観の誤認。自分を正しいと信じているが、その信念自体にずれがある。芝山は自覚していない。自分の正しさを疑ったことがない。


「芝山さん」


「何だい」


「神崎良一を知っていますね」


 風が吹いた。室外機のモーター音が一瞬途切れた気がした。途切れてはいない。風の音に紛れただけだ。


 芝山の笑みが消えた。


 ほんの零コンマ数秒。穏やかな表情が剥がれ落ちて、その下にあったのは——何もない顔。表情の空白。笑みでも怒りでも驚きでもない、無。


 そして、黒が来た。


 顔全体を覆う黒。隠蔽のヴェール。青の上に、分厚い黒が降りた。芝山の言葉の色が、表層から塗り替えられていく。桐生のときとは違う。桐生は赤と青が斑に混ざっていた。芝山は、きれいな層を成している。真実の上に、真実を隠す幕。


「……どこまで知っている、宇津木さん」


 声のトーンが変わった。穏やかさが消えている。八か月間、一度も聞いたことのない声。低く、硬い。査察官の声ではない。門番の声。


「必要なだけ」


「そうか」


 芝山は目を閉じた。風が髪を乱した。三秒。再び目を開けたとき、穏やかな表情が戻っていた。だが、もう遅い。わたしは見た。黒を見た。


「宇津木さん。——わたしの立場を、理解してもらえないかな」


「立場」


「わたしにはわたしの守るべきものがある。それは不正の擁護ではないよ。——だが、業界全体のバランスを考えたとき、全てを今すぐ壊すことが正しいとは、わたしには思えない」


 青と黒の複合。芝山は本気でそう考えている。そして、その考えの下に、もう一つの層がある。神崎への忠誠。師匠への義理。それを言葉にしない。言葉にしないことが、芝山の誠実さであり、同時に不誠実でもある。


「芝山さん。あなたは査察班の班長です。不正を調査する立場にいて、調査を管理している。——それを、あなた自身はどう呼ぶんですか」


 芝山は答えなかった。


 風がフェンスを鳴らしている。東京タワーのオレンジが、群青の空に滲んでいる。屋上にはわたしたち二人だけ。灰皿の跡と室外機と、冬の風。


「宇津木さん。君は優秀だ。——だからこそ、もう少し慎重になってほしい」


 それだけ言って、芝山は屋上のドアを開けた。振り返らなかった。金属のドアが重い音を立てて閉まる。


 一人になった。


 右目の奥の残熱が、冬の風の中でかえって際立つ。目頭を指で押さえた。冷たい指先と、熱い眼窩。


 芝山幸雄。八か月、信じてきた男。今日、敵になった。



 午後七時。小会議室で堤と沢渡に報告した。


「確定です。芝山さんは神崎良一の名前に反応しました。黒が出ました」


 堤は頷いた。予想通りだという顔。沢渡は手帳にペンを走らせている。日付と事実だけを記録する。感情は書かない。二十九歳の公認会計士は、二時間前に揺れた声を、もう手帳の中に閉じ込めていた。


「査察班での活動は、ここまでだ」


 堤が立ち上がった。


「明日から第三課を拠点にする。芝山の目の届かない場所で告発書を仕上げる。沢渡、金融庁の代替ルートを急げ」


「はい。再保険会社から直接取ります」


「宇津木。お前は芝山に通常業務の態度を崩すな。班を辞めるとは言うな。辞めれば、芝山は即座に動く。泳がせろ」


「分かりました」


 わたしは窓の外を見た。竹橋の夜景。内堀通りのテールランプが赤い帯になって大手町の方向に消えていく。十二月の東京。年末が近い。

 鞄の中に、告発書の草稿がある。A4百二十枚。添付資料四百枚超。八か月分の調査の全て。この紙束が、年内に東京地検の机の上に届かなければ、全てが無駄になる。

 告発書の提出まで、あと十二日。


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