第77話「六番目の手」
沢渡の声が、受話器越しに硬かった。
「開示不可です。今朝の九時に照会を入れたら、三十分で差し止められました」
十二月十八日、水曜日。竹橋合同庁舎三階の小会議室。わたしは沢渡の報告を、椅子に座ったまま聞いた。堤が壁に背をつけて立っている。腕を組んだまま、微動だにしない。
「差し止め——金融庁の判断ですか」
「違います。金融庁は照会に応じる準備ができていました。担当者と事前に話を通してあったんです。監理課の吉田さん——出向時代の同期です。アークライトの再保険取引、過去五年分の明細を用意してくれていた」
沢渡の声に苛立ちはない。代わりに、冷えた精密さがあった。公認会計士の声。感情を数字に変換する職業の声。
「それが今朝、突然、上から止められた。外部からの圧力です。金融庁に対して『当庁が調査中の案件に関する情報開示は、調査完了まで保留とされたい』という公式照会が入りました」
沢渡が一瞬、言い淀んだ。
「発信元は——ダンジョン庁特別査察班です」
堤が壁から背を離した。腕組みを解く。その動作だけで、部屋の空気が変わった。
「班長名義か」
「はい。芝山幸雄班長名義です」
わたしは机の上のボールペンを見た。黒いボールペン。ノック式。芝山の執務室にも同じものが置いてある。庁舎の備品。コクヨの油性、〇・七ミリ。
右目の奥に、鈍い残熱がある。Tier 4の代償。十二月に入ってからずっと続いている微かな熱。瞬きのたびに、右目だけが半拍遅れて暗転する感覚がある。
*
午前十一時。わたしは四階の芝山の執務室に向かった。
廊下のリノリウムを歩く。空調のモーター音が低く唸っている。冬でも庁舎の空調は動く。乾いた空気が喉の奥に貼りつく。加湿器のない官庁の冬は、紙の匂いがする。書類棚と段ボールとコピー用紙の、乾いた繊維の匂い。
執務室のドアをノックした。
「どうぞ」
芝山は机に向かっていた。四十五歳。白いワイシャツにグレーのネクタイ。穏やかな顔。この八か月、わたしが信頼してきた上司の顔。机の上には決裁印の押された書類が三通、未処理の書類が十通ほど積まれている。
「芝山さん。金融庁への情報保留要請は、あなたが出したものですか」
単刀直入に聞いた。前置きは不要だった。
芝山はペンを置いた。椅子の背にもたれる。わたしを見上げた。
「ああ。わたしが出した」
一切の躊躇がない。
「沢渡さんが金融庁に直接照会をかけたのは把握していたよ。——調査の手順を守るためだ。うちの班が調査中の案件に関して、班員が独自に他省庁へ照会するのは越権だよ、宇津木さん」
わたしは【真贋鑑定】を起動した。Tier 1。視界の隅に、色が滲む。
芝山の言葉は——青。
手順を守れという主張は、本物だった。芝山は嘘をついていない。越権行為を問題視しているのは事実。行政手続きの正当性を重んじる姿勢は、芝山が査察班を立ち上げたときから一貫している。
だが、青の下に、もう一層がある。
黒。深い、分厚い黒。保留要請を出した理由は手順論だけではない。手順論は本物の盾であり、同時に、本物の壁でもある。壁の向こうに何があるのか、Tier 1ではそこまで視えない。
桐生の黒とは質が違っていた。桐生は嘘と真実を混ぜた。混合物。芝山は——真実を二層にしている。表層の真実が、深層の真実を覆い隠す。嘘のない隠蔽。
「沢渡さんには注意しておきます」
「頼むよ。——彼女は優秀だが、手続き面が甘い。公認会計士は監査法人のルールには慣れていても、行政の作法は別物だ」
青。これも本気の評価。沢渡の能力を認めつつ、行政手続きの不備を指摘している。どちらも真実。
「わたしも以後、照会は班長を通します」
「そうしてくれ。——宇津木さん、調査は順調なのかい」
穏やかな声。わたしを気遣う上司の声。
「はい。先日報告した通り、黒曜の件は行き詰まっていますが、他の案件で進展がありそうです」
嘘をつくのは、これで二度目になる。一度目より楽になっていた。それが怖い。
芝山は微笑んだ。穏やかな、いつもの笑み。
「無理するなよ」
わたしは頭を下げて、執務室を出た。
廊下に出た瞬間、右目の奥が熱くなった。Tier 1の使用後の残響ではない。もっと古い熱。Tier 4を三回使った右目が、覚えている痛み。冷たい廊下の空気の中で、右目の奥だけが別の季節にいる。
*
午後一時。小会議室に戻った。堤と沢渡が待っている。
沢渡が眼鏡を外した。レンズを布で拭く。小柄な体がパイプ椅子に収まっている。百五十二センチの沢渡は、庁舎の椅子に座ると足が床にぎりぎり届く。
「手順論は本物です。芝山さんは嘘をついていない」
「嘘じゃないのに止めた。——それが問題だ」
堤が低い声で言った。紙コップのコーヒーを一口。自販機のBOSSから移し替えたコーヒー。堤はいつもそうする。缶から直接は飲まない。元警視庁組対課の癖なのか、個人の習慣なのか、わたしは聞いたことがない。
「芝山班長の行動をどう読みますか」
沢渡がわたしを見た。眼鏡をかけ直した目は、冷静そのもの。
「二つの可能性があります。一つは、芝山さんが純粋に手続きを重視しているだけ。もう一つは、手続き論を使って調査の進度を管理している」
「管理」
「芝山さんは査察班の全ての情報にアクセスできます。わたしたちが何を調べ、どこまで到達しているか。全て把握できる立場にいる。その上で、必要なときに、正当な理由でブレーキをかけられる」
堤が紙コップを机に置いた。コップの底が濡れていて、机にわずかな輪染みが残った。
「芝山は管理者だ。調査が進みすぎないように見張っている」
「断定はできません。まだ」
「お前の目で見ただろう。——黒はあったのか、なかったのか」
わたしは少し黙った。窓の外で、内堀通りの信号が変わる音が聞こえた。遠い。
「ありました。青の下に、黒がありました」
堤は頷いた。沢渡が唇を引き結んだ。眼鏡のブリッジを指で押し上げる。
「芝山さんは——アークライトの取引記録を、わたしたちに見せたくないんですね」
「見せたくないのか、見せるタイミングを管理したいのか。どちらにしても、金融庁への照会ルートは当面使えません」
沢渡が手帳を開いた。告発書の進捗管理ノート。A4の手帳に、細かい文字がびっしりと並んでいる。日付と項目とステータス。公認会計士の手帳は、数字と進捗で埋まる。
「告発書のA4百二十枚のうち、金融庁のデータに依存する部分は十八枚です。再保険の取引明細、出資者の資金移動記録、アークライトの登記変更履歴。——代替ルートを探します」
「当てはあるのか」
堤が聞いた。
「あります。金融庁を経由せず、再保険会社側から直接取る方法です。時間はかかりますが、芝山さんの管轄外になる。——二週間ください」
堤が立ち上がった。パイプ椅子が軋んだ。
「二週間。年内ぎりぎりだな」
「間に合わせます」
沢渡は手帳を閉じた。表紙はくたびれた茶色の革。角が擦り切れている。使い込まれた道具の手触り。
*
午後六時。わたしは竹橋合同庁舎を出た。
十二月の夕暮れは早い。午後四時半には暗くなる。今はもう完全な夜だった。街灯の白い光が竹橋の歩道を照らしている。内堀通りの車のヘッドライトが、東に向かって列を作っていた。
歩きながら考える。
芝山幸雄。四十五歳。特別査察班班長。神崎良一の弟子。
この人を、わたしは信じていた。査察班に配属されたとき、芝山は不正を許さない人間だとわたしは判断した。査察班の設立理由を聞いたとき、ダンジョン業界の浄化が目的だと受け入れた。
だが、芝山の机の上に、わたしの報告書が積まれている。わたしが査察班で作成した全ての報告書。調査の進捗、発見した証拠、次のステップ。芝山は全てを読んでいる。全てを知っている。
知った上で、必要なときにブレーキをかける。手順論という正当な理由を使って。嘘は一つもつかずに。
竹橋の交差点を渡る。信号が変わった。横断歩道の白線が、街灯の下で浮き上がっている。十二月の夜気が耳の縁を刺した。マフラーを巻き直す。
芝山さんは嘘をついていない。
——ただ、もう一つの真実を、隠しているだけだ。




