第76話「第三課の灯」
十二月十六日、月曜日。
芝山に偽の進捗報告をした。
午前十時。査察班の事務室で、わたしは芝山の前に座り、黒曜クランの調査について報告した。
「黒曜の書類を精査しましたが、不正の決定的な証拠は見つかっていません。請求書のパターンには不審な点がありますが、立証には至りません。——正直に言えば、行き詰まっています」
嘘だった。わたしが芝山に嘘をつくのは初めてだった。
これまでは黙っていた。黙っていることと、嘘をつくことは違う。沈黙は不作為。嘘は作為。わたしは今日、作為として、芝山に偽りの報告をした。
芝山は穏やかに頷いた。
「そうか。——行き詰まるのは珍しくないよ。黒曜は中堅クランだし、雷電ほどの規模ではない。無理に成果を出す必要はない」
わたしのスキルは使わなかった。使えば、芝山がわたしの嘘にどう反応しているかが分かる。だが今日はスキルを使う必要がなかった。芝山の反応を、目で見れば分かった。
芝山は驚かなかった。
行き詰まったという報告を、自然に受け入れた。まるで、この結果を予想していたように。あるいは、この結果を望んでいたように。
嘘を信じたのではない。嘘を受け入れた。この程度は想定内だとでも言うように。わたしが独自に調査を進めていることも、芝山は察しているのかもしれない。察した上で、泳がせているのかもしれない。管理者は管理対象の行動を把握していれば、止める必要がない。把握できている限りは、自分のタイミングで止められるからだ。
あるいは、まだ何も気づいていないのかもしれない。その判断がつかないことが、最も厄介だった。相手が何を知っているか、分からない。これは桐生を相手にしたときとは違う恐怖だった。桐生は嘘と真実を混ぜた。芝山は真実の上に真実を重ねる。
「ありがとう、宇津木さん。引き続き、できる範囲で進めてくれ」
「分かりました」
芝山が微笑んだ。穏やかな、いつもの笑み。
*
午後七時。
わたしは竹橋合同庁舎を出て、半蔵門線に乗った。永田町で乗り換え、有楽町線で護国寺。護国寺から三豊ビルまで徒歩十二分。十二月の夜風が冷たい。コートのポケットに両手を入れて歩いた。革靴の底が、歩道のタイルを叩く音だけが聞こえている。
三豊ビル北館のエントランス。暗い。退勤時間はとうに過ぎている。警備員に社員証を見せた。嘱託査定官の身分証。まだ有効。蓮田が維持してくれた身分だった。
エレベーターで十二階。廊下のリノリウムを歩く。西端。損害査定部第三課。ドアの前に立つと、中から光が漏れている。
ドアを開けた。
蛍光灯がちらついていた。天井の西端の一本。七か月間、修繕されていない蛍光灯。合同庁舎の蛍光灯は、安定していた。この蛍光灯は不安定。だから、落ち着く。
蓮田がデスクにいた。マグカップを手に。早乙女が窓際のパイプ椅子に座っていた。足を組んで、缶のカフェオレを持っている。有坂が給湯室から出てきた。トレイにコーヒーカップを載せている。
四人が揃った。
久しぶりだった。十一月の初めに査察班に移ってから、四人が同時にこの部屋にいることはほとんどなかった。わたしは竹橋。早乙女と有坂はダンジョンの現場調査が増えている。蓮田は三豊の社内調整。四人の時間が合う夜は少ない。
「来たか」
蓮田がコーヒーを一口飲んだ。
「来ました」
有坂がコーヒーを差し出した。堀口珈琲のブレンド。有坂が第三課に来てから、コーヒーの銘柄が変わった。
「宇津木さん、砂糖は入れてないです」
「ありがとうございます」
コーヒーを受け取った。温かい。カップの熱が、てのひらに伝わる。十二月の夜に、温かい飲み物を手に持てることの安心感。空調の乾いた音。遠くで窓ガラスが風に鳴っている。十二階の窓は冬の風を受ける。
パイプ椅子に座った。蓮田のデスクの前。早乙女が横に来た。有坂が自分のカップを持って、少し離れた椅子に座った。
わたしは全てを話した。
*
シンジケートの規模。年間百五十億円。鶴岡武彦と神崎良一の名前が黒塗りの下から出てきたこと。鶴岡修一が海外再保険会社との窓口を務めていること。事故偽装マニュアルに鶴岡と神崎の電子署名があったこと。告発書の作成が進んでいること。
そして、芝山への疑惑。
「芝山さんの師匠が、シンジケートの行政側の頂点にいます。特別査察班は、管理のための装置です」
早乙女が缶のカフェオレを握り締めた。アルミがへこむ音。
「芝山がいるダンジョン庁の中で、芝山を避けながら動いてるのか。——一人で、そんな無茶を」
「堤と沢渡が一緒です。一人ではありません」
「知らない名前だ。その二人は信用できるのか」
「できます」
早乙女は黙った。カフェオレの缶を机に置いた。缶の底がデスクに当たる音。乾いた音。
有坂が泣いていた。
声を出さずに、目元を手の甲で拭っている。有坂はこういうとき声を出さない。泣いていることに気づいてほしくないのだ。だが、気づかないわけがない。有坂の鼻が赤くなっている。
「有坂」
蓮田が声をかけた。
「はい。——すみません」
「泣くのは後にしろ。作戦を立てる」
有坂が鼻をすすった。目を拭いて、背筋を伸ばした。
蓮田が立ち上がった。壁を見た。付箋が六枚。黒・雷・水・乃・鶴・庁。
「告発書はいつ出せる」
「あと二週間。年内には完成します」
「間に合わせろ。年明けに芝山が動く前に」
「年明け——芝山が動く、というのは」
「年度末の人事異動だ。芝山は四月にお前を査察班から外すだろう。理由は何とでもつけられる。外された後では、庁内のデータに触れられなくなる。告発書は、年内に出す。それがタイムリミットだ」
蓮田はそう言って、新しい付箋を手に取った。黄色い付箋。ペンで一文字書いた。
『神』。
壁に貼った。七枚目。
黒・雷・水・乃・鶴・庁・神。
壁の付箋が七枚になった。四月に一枚目の『桐』を貼ってから八か月。剥がした付箋は一枚。増えた付箋は七枚。剥がすより増えるほうが多い。それが、この案件の性質だった。
蛍光灯がちらついた。天井の西端の一本。不安定な光が、七枚の付箋を照らしている。
「蓮田さん」
「何だ」
「七枚目の付箋。——敵の名前は、まだ増えていくんでしょうか」
蓮田がマグカップのコーヒーを飲み干した。空のマグカップを机に置いた。
「増えるだろうな。だが——」
蓮田が四人を見回した。わたし。早乙女。有坂。そして蓮田自身。
「こっちも増えた。四月は二人だった。今は四人だ。——壁の付箋より、椅子の数のほうが多い。それでいい」
早乙女が立ち上がった。窓際に歩いて、外を見た。十二月の夜景。向かいのビルの工事シートは撤去されている。十月にあった赤いネットはもうない。代わりに、改修されたビルの新しい外壁が、街灯の光を反射している。
「宇津木」
「はい」
「年内に出すんだな。告発書」
「出します」
「手伝えることがあったら言え。あたしにできることは多くないかもしれないけど。——ダンジョンの中なら、何でもやる」
早乙女は窓を背にして、わたしを見た。茶髪のショートカット。百六十七センチの長身。C級探索者の目。ダンジョンの中で生き延びてきた女の目。
「ありがとうございます。必要なときに、必ず声をかけます」
有坂がコーヒーカップを両手で包んでいた。泣いた後の目が赤い。
「あの、宇津木さん」
「はい」
「軟膏、作っておきます。たくさん。——使ってくださいね」
わたしは頷いた。有坂の軟膏。【回復軟膏精製】で作られる回復薬。Tier 4の反動にどこまで効くかは分からない。だが有坂が作ってくれるものを、わたしは断らない。
午後九時半。わたしは三豊ビルを出た。護国寺の駅に向かって歩く。十二月の夜風。コートの隙間から冷気が入る。背後に、十二階の窓の光が残っている気がした。振り返らなかった。
七枚目の付箋。敵の名前は、まだ増えていく。




