第75話「告発」
十二月九日、月曜日。
五つの手が動いている。
わたしの手。Tier 4で読み取った出資者一覧と裏帳簿の数字。沢渡の手。金融データの分析と、参照番号の裏にある実際の資金フロー。堤の手。黒曜クラン元メンバーの証言録取書。蓮田の手。三豊側の再保険契約の経緯整理。氷室の手。三豊ダンジョン保険の再保険契約データ。
氷室のデータは、約束通り三日後の十二月七日に届いた。暗号化されたファイルではなく、紙。百二十七ページのプリントアウト。三豊ダンジョン保険とアークライト・リインシュアランスの再保険契約。過去五年分。コンプライアンス推進室の定期監査として、氷室が正式な社内手続きを経て出力したデータだった。氷室の名前が、出力ログに残っている。
蓮田に報告したとき、蓮田は紙の束を手に取り、最初のページをめくり、黙った。十五秒。蛍光灯のちらつきが三回。
「氷室は覚悟を決めたか」
「ええ」
「お前は、氷室にどう声をかけた」
「正直に言いました。三豊にいられなくなると」
「……そうか」
蓮田はそれ以上何も聞かなかった。マグカップのコーヒーを一口飲んで、紙の束をファイルに綴じた。ファイルの背表紙には何も書かなかった。名前のないファイル。このファイルの中身を知っているのは、まだ五人だけだった。
早乙女が昼休みに戻ってきた。ジャケットを椅子にかけ、コンビニの袋から缶のカフェオレを出した。わたしと蓮田の間の空気を読んで、何も聞かなかった。ただ、帰り際に一言だけ。
「無理するなよ」
わたしが振り返ると、早乙女はもう廊下を歩いていた。
*
午後二時。三豊ビル北館十二階。第三課の事務室。
蓮田に電話をかけていた相手は、佐伯弁護士だった。佐伯浩太郎。わたしたちの顧問弁護士。第二部の桐生案件でも法務面を支えてくれた人物。
蓮田がスピーカーフォンに切り替えた。わたしも横で聞いている。
「佐伯先生。証拠の全体像をまとめました。ご意見を伺いたいんですが」
『蓮田さん。まず規模を教えてください』
「年間百五十億円です。五社のクラン経由で八十億。推進機構経由を含むその他で七十億。保険金洗浄スキームの全体規模です」
佐伯弁護士が沈黙した。電話越しに、ペンが紙に触れる音が聞こえた。数字をメモしているのだろう。
『百五十億。前回の雷電は四億七千万でしたね。桁が二つ違う』
「ええ」
『告発先はどこを想定していますか』
「金融庁だけでは足りないと考えています」
わたしが口を開いた。
「佐伯先生。告発対象にダンジョン庁の外郭団体が含まれます。ダンジョン安全推進機構の理事長、神崎良一。行政機関の関係者を告発する以上、金融庁の内部処理では収まりません」
『検察の特捜部案件になる可能性がある、ということですね』
「はい」
佐伯が十秒ほど考えた。
『検察特捜は、証拠が完璧でなければ動きません。とくに行政官僚の関与案件は、政治的なハードルが高い。中途半端な証拠では受理すらされない。——しかし、この規模であれば、動く可能性はあります』
「提出先は」
『まず金融庁に告発書を提出してください。金融庁から検察への通報ルートを使います。金融庁の証券取引等監視委員会が、「犯罪の嫌疑あり」と判断すれば、検察に告発します。わたしたちが直接特捜に持ち込むよりも、行政機関を経由したほうが、検察の受理率は上がります』
佐伯のアドバイスは、法的な手続きの地図だった。わたしたちは書類を揃える。金融庁が受理する。金融庁が検察に通報する。検察が動く。四段階のプロセス。
「分かりました。告発書の作成に入ります」
『宇津木さん。一つ確認させてください。証拠の中に、あなたのスキルで読み取った情報はありますか』
「あります。Tier 4で読み取った出資者一覧と裏帳簿の数字です」
『その情報の証拠能力は法的にグレーです。スキルの信頼性が法廷で争われる可能性がある。できれば、スキル以外の証拠で同じ事実を裏付ける必要があります。氷室さんのデータと沢渡さんの分析が、その裏付けになりますが——完全ではないかもしれません』
「承知しています。沢渡の財務分析と、氷室の再保険データで、スキル情報と同一の事実を独立に証明できる構造にします」
『それがベストです。スキルの情報は「発見の端緒」として使い、証拠の柱は物的証拠と財務データで組み立てましょう。裁判になったとき、スキル頼みの証拠構造は相手方の弁護士に突かれます。特に水守達也が相手であれば——』
「水守は、そこを突いてくるでしょうね」
『水守達也は日本で五本の指に入る企業法務弁護士です。前回の雷電案件でも、法的な防火壁の設計は見事でした。今回はさらに巧妙なはずです。証拠構造は三重に補強してください』
「分かりました」
電話を切った後、蓮田が言った。
「五方面だな。お前と沢渡と堤が証拠の整理。俺が三豊側の経緯をまとめる。氷室が再保険データの裏付け。五つの手で、一本の告発書を書く」
「はい」
「だが六番目の手がある」
蓮田がマグカップを机に置いた。音がしなかった。置き方が静かだった。
「芝山だ。お前が査察班で動いていることを、芝山はいつか気づく。気づいたとき、芝山が何をするかは分からない。だが、何もしないことはない」
六番目の手。芝山の手。わたしたちが告発書を書いている間、芝山もまた何かを書いているかもしれない。管理者としての報告書を。あるいは、わたしたちの動きを止めるための書類を。
「芝山に気づかれる前に、告発書を完成させます。年内に提出します」
「年内ってのは、あと三週間だぞ」
「足ります」
蓮田がわたしを見た。五十歳の課長の目。
「足りるのか」
「五人いますから」
蓮田は何も言わなかった。マグカップを持ち上げて、冷めたコーヒーを飲んだ。
*
その夜から、告発書の作成が始まった。
わたしは竹橋の合同庁舎で日中を過ごし、夕方以降に三豊ビルに移動して蓮田と作業する日が続いた。堤は独自に証言の補強を進め、メモを蓮田宛てに送った。沢渡は金融庁時代のフォーマットで財務分析レポートを書いた。氷室は再保険データの要約を、暗号化した電子メールで毎晩送ってきた。
告発書の構成をわたしが設計した。銀行時代の融資審査報告書と同じ構造。結論を先に置き、証拠を時系列で並べ、各証拠の出所と信頼性を注記する。
第一章。事案の概要と被害規模。年間百五十億円。
第二章。保険金洗浄スキームの構造。クラン→保険会社→再保険→ファンド→外郭団体の資金フロー。
第三章。関与者の特定。鶴岡武彦、神崎良一、水守達也。
第四章。ダンジョン庁内部の共犯構造。定期点検データと保険金請求日の相関。
第五章。証拠一覧と証拠の独立検証結果。
表紙のタイトルは蓮田が決めた。
「ダンジョン関連産業における保険金洗浄スキームに関する告発書」。
A4で百二十枚。添付資料は四百枚を超える。佐伯弁護士が法的なチェックを入れ、沢渡が数字を検証し、堤が証言の整合性を確認する。五人の手が、一本の書類に向かって動いている。
竹橋の合同庁舎に戻ったのは午後八時だった。事務室は暗い。芝山はとうに帰っている。わたしはデスクライトだけを点けて、告発書の第一章の下書きを始めた。パソコンのキーボードを叩く音が、静かな庁舎に響く。画面の光が顔を照らしている。
五つの手が動いている。だが、六番目の手が、こちらを見ている。




