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ダンジョン保険の例外案件係に左遷された俺、【真贋鑑定】で業界の闇を全部暴く  作者: 夜摩 高嶺
第三部『シンジケート』

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第74話「氷室」

 十二月四日、水曜日。午後六時。


 わたしは丸の内の仲通りを歩いていた。イルミネーションの季節だった。街路樹にLEDの白い光が巻きつけられ、石畳の通りが冷たく浮かび上がっている。ビジネス街のはずだが、この時間帯はコートを着たカップルと外国人観光客が目立つ。スーツ姿で鞄を提げたわたしは、少し浮いていた。


 仲通りの中ほど。カフェ・ド・ラペ。フランス系のビストロカフェ。氷室が指定した店だった。東京駅から徒歩七分。三豊ビルからは地下鉄で四駅。


 氷室瑞樹。三十歳。三豊ダンジョン保険、コンプライアンス推進室主任。実質的な隔離部署にいる。第二部で内部情報を匿名で提供し、桐生鷹志の失脚に貢献した。その後、三豊の中で居場所を失い、コンプライアンス推進室という一人部署に異動させられた。


 証拠は揃い始めている。鶴岡と神崎の署名入りマニュアル。推進機構の財務報告書の裏帳簿。沢渡の金融データ。堤の証言録取。だがもう一つ、三豊の内部からの証拠が要る。再保険契約の実データ。それを持っている人間に心当たりは一人しかなかった。


 連絡を取ったのは昨日。わたしの携帯から、氷室の個人番号に。三コールで出た。


『氷室さん。宇津木です。お会いしたいんですが』


 氷室は二秒だけ間を置いて、『場所と時間を送ってください』と言った。余計なことは聞かなかった。わたしが半年ぶりに連絡する理由が一つしかないことを、氷室は分かっている。


 店に入った。奥の二人席に、氷室が座っていた。


 半年ぶりに見る氷室は、痩せていた。頬骨が浮いている。スーツは相変わらず仕立てがいいが、肩幅が余っている。ネクタイはグレー。以前の氷室なら紺か濃紅を選んでいた。グレーのネクタイは、氷室の色ではなかった。


「宇津木さん。お久しぶりです」


 声は変わっていない。冷たい敬語。しかし目の下に薄い隈がある。


「お久しぶりです」


 向かいの席に座った。ウェイターが来る前に、氷室が水のグラスを一口飲んだ。両手でグラスを包む仕草。以前の氷室は片手でグラスを持つ男だった。両手で持つのは、手が震えているのを隠すためか。あるいは単に、冬の寒さが指先に残っているだけか。


「用件を伺います」


「もう一度、力を貸していただけませんか」


 氷室がグラスをテーブルに置いた。水面が揺れた。テーブルの振動ではない。


「前回は、匿名でした」


「ええ」


「今回も?」


「今回は違います。正式な内部通報として動いていただく必要があります。お名前を出していただきます」


 氷室が黙った。カフェの中は適度に騒がしい。隣のテーブルでは若い女性二人がスイーツの写真を撮っている。奥の席ではスーツ姿の男女が仕事の打ち合わせをしている。このカフェの誰も、わたしたちの話に興味を持たない。


「名前を出す。つまり、三豊にいられなくなります」


「はい」


 わたしは嘘をつかなかった。ここで「大丈夫です」と言えば楽だが、楽な嘘は氷室に通じない。氷室は嘘を嫌う。自分が嘘をついてきたからこそ、他人の嘘に敏感だった。


「何が必要ですか」


「三豊ダンジョン保険の再保険契約データです。アークライト・リインシュアランスとの取引履歴。過去五年分。コンプライアンス推進室の権限でアクセスできる範囲のはずです」


「できます。コンプラ推進室の権限は広い。形だけは」


 形だけは。その四文字に、氷室の三年間が凝縮されていた。コンプライアンス推進室は社内の不正を監視する部署だが、実態は問題社員の隔離先として機能している。権限はある。人がいない。予算がある。仕事がない。氷室はそこに一人で座り、三年間、自分の名前でメールを書くことすらほとんどなかった。


「アークライトとの取引データを引き出せば、経理部が気づきます。照会の記録が社内システムに残る。理由を聞かれたとき、わたしはどう答えますか」


「コンプライアンス推進室の定期監査。再保険取引の適正性確認。権限の範囲内です」


「建前としてはね。ですが宇津木さん。三豊の中で『コンプラが再保険を調べている』と聞いたら、上は動きますよ。黒川部長はもういませんが、黒川がいた椅子には別の人間が座っています。その人間が鶴岡と繋がっているかは、わたしには分かりません」


 氷室の分析は正確だった。コンプライアンス推進室に隔離されていた三年間、氷室は何もしていなかったわけではない。透明人間のふりをしながら、社内の力学を観察し続けていた。誰がどこに報告し、どの決裁が誰の意向で動くか。氷室は見ていた。


「リスクは承知しています。それでも、お願いできますか」


 氷室がコーヒーを注文した。エスプレッソ。砂糖なし。ウェイターが去った後、氷室はテーブルの上で指を組んだ。長い指。銀行時代の同僚だった頃から、氷室の指は長かった。あの頃は自信に満ちた指だった。融資案件を裁き、顧客の前でプレゼンをし、同期の中で最速で出世した男の指。今は細く、白い。


「宇津木さん。わたしは三年間、この会社で自分を殺してきました」


 氷室の声が変わった。冷たい敬語の殻の下に、かすかな熱が透けた。


「前回あなたに協力したとき、わたしは匿名でした。匿名のまま、元の席に戻って、何事もなかったふりをしました。毎朝八時半に出社する。午後五時半に帰る。メールは来ない。電話も鳴らない。会議にも呼ばれない。コンプラ推進室のデスクで、三年間、透明人間をやってきました」


 エスプレッソが来た。小さなカップ。氷室が持ち上げて一口飲む。口の中にエスプレッソの苦みが広がるのを待ってから、続けた。


「銀行を辞めたとき、わたしはまだ二十六歳でした。三豊に来て、損保の仕事を覚えて、本社企画部の主任になった。出世コースだと思っていた。でもあなたに協力した時点で、そのレールは折れた。折れたレールの上で、わたしは三年間、ブレーキを踏み続けていた」


 氷室がカップをソーサーに戻した。目がわたしを見ている。隈の下の、鋭い目。この目は変わっていない。銀行時代、融資先の経営者を値踏みしていた頃と同じ目。


「もう充分です」


 青。


 スキルは使っていない。Tier 4の反動を警戒して、今日はスキルの使用を控えていた。だがスキルを使わなくても分かった。氷室の声。氷室の目。テーブルの上で組まれた指が、もう震えていない。


「三日ください。データを揃えます。今度は、わたしの名前で、正式に出します」


 氷室がコーヒーカップの底に残ったエスプレッソを飲み干した。カチン、と磁器がソーサーに当たる音。小さな音。窓の外で丸の内のイルミネーションが白く光っている。その光が窓ガラスを通して氷室の横顔を照らしていた。


「ありがとうございます」


「礼はいりません。これは、わたし自身のためです」


 わたしたちは別々に店を出た。氷室が先に出て、わたしは五分待った。エスプレッソの代金を払い、店を出る。仲通りのイルミネーションが白く冷たい。コートの襟を立てた。


 東京駅に向かって歩きながら、わたしは氷室の目を思い出していた。隈の下の鋭い目。三年間の隔離を経て、あの目は鈍っていなかった。氷室瑞樹は銀行時代から、判断が速く、実行力がある男だった。わたしが告発した不正融資の関係者だった氷室に、こうして協力を求めている。人間関係の因果は単純ではない。


 駅の改札を通った。ホームで丸ノ内線を待つ。冷たいホームの空気。線路の隙間から吹き上がる風に、油と鉄の匂いが混じっている。


 氷室瑞樹が二度目の扉を開けた。今度は、匿名ではない。三日後に、再保険契約のデータが届く。五つ目の証拠。五つの手が動いている。


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