第73話「証拠」
十二月二日、月曜日。
芝山に報告せず動くようになって、二週間が経っていた。朝、出勤して芝山に挨拶をする。黒曜の調査の進捗を曖昧に報告する。芝山は頷く。わたしは席に戻る。そして芝山が外出するたびに、わたしと堤と沢渡は本当の仕事を進めた。
十二月に入ると、東京の空気が変わった。合同庁舎の暖房が本格稼働し、事務室の空気が乾燥した。加湿器はない。沢渡がデスクにペットボトルの水を置く回数が増えた。堤は何も変えなかった。缶コーヒーの銘柄も、ジャケットの色も。
今日の案件は二つ。鶴岡修一の動きと、黒曜クランの元メンバーへの接触。
*
午前九時。沢渡が金融庁時代の同僚に連絡を取った結果が、メールで届いていた。
「アークライト・リインシュアランスの日本側取引記録。照会結果です」
沢渡がプリントアウトを机に広げた。A4が三枚。取引先一覧と担当窓口の情報。
「アークライトとの再保険取引で、日本側の窓口を務めているのは——ここです」
沢渡の指が一行を示した。雷電グループ国際事業部。担当者名。鶴岡修一。
「鶴岡修一が、海外再保険会社との直接の接点になっている」
「ええ。桐生が副代表を辞任した後、鶴岡武彦が甥の修一を新副代表に据えました。修一の肩書は国際事業部担当。つまり、海外との窓口です」
鶴岡修一。三十八歳。元マッキンゼー。経営畑の人間。桐生鷹志のようなカリスマも、S級探索者としての戦闘力もない。だが桐生にできなかったこと——海外の再保険会社との実務的な折衝——を、修一は経営コンサルタントの経歴で遂行できる。
「桐生は国内の実働部隊の長だった。修一は海外との接点役。役割が違う」
「鶴岡は甥を使って、桐生の退場で空いた穴を埋めたのではなく、別の穴を埋めた。海外との回路を、修一が維持している」
沢渡が頷いた。取引記録のプリントアウトに赤ペンで印をつけている。修一の名前の横に、小さく「海外窓口」と書き込んだ。
堤がジャケットのポケットから携帯電話を出した。画面を確認して、わたしに向けた。
「俺のほうも動きがあった。黒曜クランの元メンバー。一人、話を聞けそうだ。今日の昼に会える」
*
午後一時。新宿区歌舞伎町。
堤とわたしは、靖国通りから一本入った路地のファミリーレストランにいた。ジョナサン。昼の時間帯で、客はまばらだった。奥の席に、男が一人で座っている。
元黒曜クラン所属。C級探索者。名前は伏せる条件で、堤が接触した。三十代前半。やせた体躯。左手の甲に古い傷跡。ダンジョン内の魔獣によるものだろう。
堤が先に座った。わたしは堤の隣に座った。男はアイスコーヒーのグラスを両手で包んでいる。十二月に冷たい飲み物を飲む男。緊張しているのか、喉が渇いているのか。
「話してくれ」
堤が言った。元刑事の聞き取りは短い。
テーブルの上のメニュー表が汚れている。コーヒーの輪染み。ランチタイムのファミリーレストランの騒音が、会話の保護膜になる。隣のテーブルでは大学生の集団が笑い声を上げている。わたしたちの話を聞く者はいない。
男が話し始めた。声は低く、早口だった。
「黒曜にいたのは二年間です。二〇二二年の春に入って、去年の秋に辞めました。辞めた理由は——やってることがまずいと思ったからです」
「何がまずかった」
「事故の偽装です。ダンジョン内で事故を起こしたように見せかけて、保険金を請求する。最初は先輩に言われるままやってました。事故の報告書を書いて、怪我の写真を撮って、保険会社に出す。一件あたり五百万から千五百万。月に二件から三件」
「手順書があったと聞いている」
男がアイスコーヒーのストローから手を離した。
「ありました。事故偽装マニュアルっていうんですか。手順が全部書いてある。どのダンジョンの何階層で、どの罠を使って、どういう怪我を装って、報告書の書式はこう、保険会社への提出タイミングはこう。全部マニュアル化されてました」
「マニュアルは、誰が作った」
「分かりません。上から降りてくるだけです。クランの代表に、誰かから送られてくるらしい。代表も誰が作ったか知らないと言ってました。嘘かもしれませんが」
「そのマニュアルの形式は」
「暗号化されたファイルです。専用のアプリでしか開けない。印刷禁止。スクリーンショットも撮れない。閲覧するたびにサーバーにログが残る仕組みです。セキュリティは本格的でした。素人が作ったものじゃない」
水守達也の仕事だ、とわたしは思った。法的インフラだけでなく、証拠管理の技術的インフラも水守が設計している。閲覧ログが残るということは、誰がいつマニュアルを読んだかを、中央で把握できるということだった。
「そのファイルを持っているか」
男が黙った。五秒。十秒。アイスコーヒーの氷が溶けてグラスの中で崩れる音がした。
「持ってます。辞めるときに、保険で持ち出しました。暗号化されたままですけど」
「見せてくれ」
男が鞄からUSBメモリを出した。黒いプラスチック。八ギガバイト。テーブルの上に置かれた小さな物体。ファミレスのテーブルの上で、USBメモリは何の変哲もない日用品に見えた。中に入っているのは、シンジケートの実務マニュアル。
堤がUSBメモリをポケットに入れた。男に礼を言い、名刺は渡さなかった。わたしも渡さなかった。男は残りのアイスコーヒーを飲み干して、先に店を出た。冬のコートの背中が、ガラス越しに靖国通りの人混みに消えた。
*
午後四時。合同庁舎に戻った。
芝山はまだ会議室にいる。堤がドアの前を確認してから、わたしにUSBメモリを渡した。
「暗号化されている。普通には読めない」
「読めます」
わたしはUSBメモリをデスクのパソコンに差した。ファイルが一つ。拡張子は不明。暗号化されたバイナリ。通常のソフトウェアでは開けない。
Tier 4を起動した。
視界が灰色に沈む。パソコンの画面が灰色になり、その中で暗号化されたファイルの中身が白い文字として浮かび上がった。
事故偽装マニュアル。全二十三ページ。
第一章、対象ダンジョンの選定基準。第二章、事故パターンの分類と実行手順。第三章、報告書の書式と提出スケジュール。第四章、保険会社別の審査傾向と対策。第五章、緊急時の対応——調査が入った場合の証拠処分手順。
わたしは読み上げた。声を落として。沢渡がペンを走らせた。堤が廊下を見張った。
最終ページ。承認者の電子署名。暗号化されていたが、Tier 4で可視化された。署名者は二名。
鶴岡武彦。
神崎良一。
「鶴岡と、神崎」
沢渡が書き取った名前を見つめた。声が震えていた。
「二人の署名が、事故偽装マニュアルの承認者として入っています。これは——直接の証拠です」
頭蓋の痛みが戻ってきた。右目の奥でTier 4の熱が膨らむ。視界の端で色がちらつく。先週から数えて三回目の使用。月に二回が上限だとすれば、すでに限界を超えている。体が警告を発していた。四回目があれば、恒久的な損傷を招くかもしれない。その境界線が、頭蓋の裏側で薄く光っている。
わたしはUSBメモリを抜いた。
沢渡がノートを閉じた。二十三ページ分の要約と二つの署名が、彼女の丁寧な筆跡で記録されている。
「これで、鶴岡と神崎の関与を直接示す証拠が揃いました」
沢渡の声は静かだったが、ペンを持つ手がわずかに震えていた。
堤が頷いた。
「次は、この証拠をどう使うかだ」
わたしはデスクの椅子に深く座った。芝山が会議室から戻るまで、あと三十分。三十分の間に、次の手を考える。
二つの名前が、暗号化の壁の向こうから出てきた。鶴岡武彦と神崎良一。事故偽装マニュアルの承認者。これが証拠だ。書類が語る、動かしがたい証拠。




