第72話「裏帳簿」
四十八時間が経った。
十一月二十八日、木曜日。午前七時。わたしは自宅のアパートで目を覚まし、天井を見上げた。白い天井。白い。ちらつきがない。まばたきをしても、色は反転しなかった。
右手を目の前に持ち上げた。肌色。正常。窓のカーテンの緑。正常。テーブルの上の本の赤い背表紙。正常。四十八時間。体の予感は正確だった。
スキルの気配が戻っている。指先に、かすかな振動。遠くにあった【真贋鑑定】が、手の届く距離に戻ってきた。ただし、右目の奥に鈍い痛みが残っている。Tier 4の反動は、視覚の回復だけでは終わっていなかった。
蓮田に電話をかけた。朝七時。蓮田はもう起きている。
「蓮田さん。報告があります」
「今か。出勤前だぞ」
「はい。電話では話せません。昼に三豊に寄ります」
「……分かった」
蓮田の声に、わずかな間があった。わたしが「電話では話せない」と言う頻度が増えていることに、蓮田は気づいている。
*
午前十一時半。三豊ビル北館十二階。
査察班には「外回りの調査」と伝えて外出した。嘘ではない。三豊に行って蓮田と話すことも、調査の一部だった。
第三課の事務室。蛍光灯が一本ちらついている。西端の一本。半年以上、修繕されていない。この光の不安定さが、妙に落ち着く。竹橋の合同庁舎の蛍光灯は全部新しくて、安定していて、人間味がなかった。
蓮田がデスクにいた。マグカップのコーヒーを飲んでいる。わたしが入ってきたのを見て、マグカップを手元に下ろした。
「来たか」
「来ました」
早乙女と有坂はダンジョン調査に出ている。事務室にはわたしと蓮田の二人だけ。
わたしは蓮田の前に座り、すべてを話した。
黒塗り文書に対峙したこと。Tier 3では読めなかったこと。指先で振動を感じたこと。そして——Tier 4。
「Tier 4か」
蓮田はマグカップを持ったまま動かなかった。コーヒーの表面に蛍光灯の光が揺れている。
「お前、体は大丈夫なのか」
「大丈夫ではありません」
正直に答えた。右目の奥の痛み。四十八時間のスキル不能。色覚反転。蓮田は黙って聞いた。マグカップのコーヒーには手をつけなかった。
「……で。何が読めた」
「出資者一覧です。鶴岡武彦、神崎良一、アークライト・リインシュアランス日本支社。運営管理者は水守達也」
「神崎良一。ダンジョン安全推進機構の理事長。芝山の師匠か」
蓮田は知っていた。名前だけではない。神崎と芝山の関係も。
「お前が芝山の査察班にいるのは、神崎の管理下にいるってことだ。分かってるな」
「分かっています」
「いつ抜ける」
「まだ抜けません。査察班の中にいるからこそ、芝山の動きを観察できます。抜ければ、芝山の行動が見えなくなる」
蓮田がコーヒーを一口飲んだ。冷めていただろう。表情を変えなかった。
「それで。Tier 4が戻った今日、何をする」
「ダンジョン安全推進機構の財務報告書を読みます。公開データですが、注記に暗号化された参照番号がある。表の数字と実際の資金フローが一致するかどうかを確認します」
「百五十億の全体像を掴む、と」
「はい」
蓮田がマグカップをデスクに置いた。コツン、と陶器が鳴る音。
「体を壊すなよ」
「壊さないようにします」
「壊すなよ、って言ってんだ。『ようにします』じゃない」
蓮田の声が低くなった。わたしは口を閉じた。蓮田が部下に対して命令口調を使うのは珍しい。珍しいから、重い。
「分かりました」
蓮田はそれ以上何も言わなかった。デスクの引き出しからファイルを出して、通常業務に戻った。わたしが帰る前に、蓮田が一つだけ付け足した。
「芝山のことは、早乙女にも伝えておく。お前からは言うな。あいつは感情が先に出る」
「お願いします」
第三課を出た。廊下を歩きながら、蛍光灯のちらつきが背中の後ろで明滅した。この建物の音は覚えている。リノリウムの床を踏む靴音。給湯室から流れるコーヒーの残り香。エレベーターのモーター音。ここが、わたしの最初の戦場だった。
*
午後二時。竹橋合同庁舎に戻った。
沢渡が用意していた書類が机の上に置かれていた。ダンジョン安全推進機構の二〇二三年度財務報告書。公開データ。A4で三十二ページ。表紙に推進機構のロゴ。
芝山は席にいた。午後の業務中。沢渡は芝山の目の前で、わたしに書類を渡した。「黒曜の再保険取引の参考資料です」と、沢渡は言った。嘘ではない。推進機構の財務報告書は、黒曜の再保険取引を分析する参考資料として使えなくもない。
わたしはデスクで報告書を開いた。三十二ページ。数字が並んでいる。収益、費用、資産、負債。公開情報としては、標準的な構成だった。
十七ページ目。注記の項。
沢渡が言っていた通り、注記の中に暗号化された参照番号がある。「別添参照:KR-2023-04」「別添参照:KR-2023-11」。参照番号自体は公開されているが、参照先の文書は非公開。暗号化されている。
わたしは左手で報告書を開き、右手の指先を参照番号の上に置いた。
芝山がいる。三メートル先のデスクで、パソコンの画面を見ている。
わたしは報告書の数字を読むふりをしながら、Tier 4を起動した。
視界が灰色に反転した。音が遠くなる。空調の唸り。キーボードを叩く音。芝山の呼吸。全てが灰色の向こう側に沈む。
参照番号「KR-2023-04」の下に、白い文字が浮かんだ。暗号化された参照先の数字。推進機構の公開財務報告書に記載された「事業投資運用益 二億三千四百万円」の裏にある実際の数字。
七億一千二百万円。
公開数字の三倍。
参照番号「KR-2023-11」。「ダンジョン関連産業振興助成金 一億八千万円」の裏。
五億四千六百万円。
やはり三倍。
わたしは数字を暗記した。声に出すわけにはいかない。芝山がいる。沢渡のノートに書き取らせることもできない。指先を動かして、報告書の余白に、鉛筆で数字を小さく書いた。芝山のデスクからは見えない角度。
視界の灰色が崩れ始めた。色が戻ってくる。Tier 4の維持限界。今回は短かった。体が反動を覚えている。前回よりも短い時間で、限界が来る。
頭蓋の痛みが戻ってきた。前回ほどではない。だが右目の奥で、四十八時間前と同じ熱が再燃した。鋭くはない。鈍い、持続する熱。
わたしは報告書を閉じた。余白に書いた鉛筆の数字を、もう一度確認した。
七億一千二百万円。五億四千六百万円。二つの参照番号だけで、公開数字との差額が約八億五千万円。注記には参照番号が全部で十一個ある。全てを読み取るには、Tier 4をあと数回使う必要がある。だが、今日はもう限界だった。
沢渡が自分のデスクから視線だけを寄越した。わたしは小さく首を縦に振った。読めた、という合図。沢渡の目が一瞬だけ大きくなり、すぐ元に戻った。
午後四時半。芝山が会議に出た隙に、沢渡が余白の数字を写し取った。ノートの奥。三色ボールペンの赤で。
「この差額の比率が全参照番号に一貫して適用されるなら」
沢渡が電卓を叩いた。指が速い。会計士の手。
「年間推定百五十億円。五社のクラン経由で八十億。推進機構経由を含むその他のルートで七十億。合計百五十億です」
百五十億。わたしは声に出さず、口の中で繰り返した。雷電の四億七千万は、全体の三パーセントにすぎなかった。桐生鷹志を半年かけて追い詰めた、あの四億七千万が。
堤が缶コーヒーの最後の一口を飲み干した。空き缶をデスクの端に置いた。
「雷電の三十倍だな」
「ええ」
「三十倍の敵を相手にする覚悟はあるか」
「覚悟はありません。ただ、書類を読むだけです」
堤は何も言わなかった。空き缶を潰して、ゴミ箱に入れた。
トイレに立った。個室に入り、鍵を閉めた。壁に額をつけた。タイルの冷たさが、額の熱を吸う。蛍光灯が真上で光っている。その光が、一瞬だけ紫に見えて戻った。ちらつき。Tier 4の残響。
百五十億の闇を視た。その代価は、まだ体の中で燃えている。




