第71話「反転色」
六時間後に、色覚は戻った。
午後二時過ぎ。休憩室のソファの上で、わたしは天井を見上げていた。白い天井が、白く見えている。蛍光灯の光が蛍光灯の色をしている。右手を持ち上げた。自分の手の皮膚が、肌色に見える。
反転は収まった。
ただし、両目にちらつきが残っていた。視界の端で、色が一瞬だけ反転する。まばたきをすると元に戻る。不安定な視覚。堤が置いてくれたペットボトルの水を飲もうとして、ラベルの赤が一瞬だけ青に見えた。ラベルを二度見する。赤い。正しい赤。
頭蓋の軋みは鈍い痛みに変わっている。こめかみの脈動は収まった。だが、全Tierが使えない感覚が体の中にある。スキルの気配が遠い。手を伸ばしても届かない場所に、【真贋鑑定】が引っ込んでいる。四十八時間は必要だろうと、体が告げていた。
堤が休憩室のドアを開けた。
「色は戻ったか」
「戻りました。ちらつきが残っていますが、歩けます」
「芝山が三時半に戻る。予定より三十分早い。移動するぞ」
*
午後三時。査察班の事務室。
わたしと堤と沢渡は、何事もなかったかのようにデスクで作業をしていた。沢渡のノートは鞄の奥にしまわれている。Tier 4で読み取った出資者一覧の記録。三人以外の目に触れさせるわけにはいかなかった。
芝山が戻ってきた。三時三十二分。革靴の音が廊下から近づき、ドアが開いた。
「お疲れさま。変わりはありますか」
「特にありません。黒曜の書類を精査中です」
わたしの声は平静だった。色覚のちらつきは会話中にも二回起きた。芝山の顔が一瞬だけ補色に反転し、すぐ戻る。紺のネクタイが赤く光り、肌の色が青みを帯び、一秒で正常に戻る。芝山はわたしの目の中で起きていることに気づかない。
芝山が席に着いた。パソコンの画面を開く。穏やかな横顔。四十五歳。監察官。ネクタイの結び目が端正。左手の薬指には結婚指輪。この男は家庭がある。子供がいるのかは知らない。聞いたことがない。
この男の師匠の名前が、今朝、黒塗りの下から出てきた。
*
午後六時。芝山が退勤した後、三人で沢渡のノートを広げた。
朝日ダンジョン投資事業組合。出資者一覧。
第一号出資者。鶴岡武彦。鶴岡の名前は予想の範囲内だった。組合の資金フローを辿れば、鶴岡の関与は既に推定されていた。確認にすぎない。
第二号出資者。ダンジョン安全推進機構理事長・神崎良一。
この名前が問題だった。
「神崎良一」
堤がペンをデスクに置いた。
「知っていますか」
「知ってる。ダンジョン庁の元幹部だ。退官後に推進機構の理事長に天下った。庁内では『ダンジョン行政の父』と呼ばれている男だ」
「行政の、父」
「二〇一四年にダンジョンが出現してからの七年間で、ダンジョン関連の法制度をほぼ一人で設計した。探索者登録制度。クランの法人化規定。ダンジョン庁の組織設計。全部、神崎が原案を書いた。二〇二一年に退官するまで、庁のナンバーツーだった」
堤の声は淡々としていた。だが情報の密度が高い。元刑事はダンジョン庁の人事構造にも明るかった。組織犯罪対策課がダンジョン関連犯罪を扱い始めた時期に、庁の内部事情を把握していたのだろう。
「芝山さんとの関係は」
「神崎が芝山を監察官に引き上げた。芝山はもともと検査課の係長だったが、神崎の目に留まって、三十代前半で監察官に抜擢された。庁内では『神崎の弟子』で通っている。退官後も月に一度は会っているという話を、俺が組対にいた頃に聞いた」
月に一度。退官後五年が経っても。師弟関係という言葉では収まらない距離感だった。
沢渡が眼鏡を外し、レンズ拭きで磨いた。考えるときの癖だ。
「つまり、芝山班長の師匠が、シンジケートの行政側の出資者」
「そうなる」
わたしは椅子の背に体を預けた。頭蓋の鈍痛がまだ残っている。右目の奥に、Tier 4の残熱。
「構造を整理します」
沢渡がノートの新しいページを開いた。
「ダンジョン・ロンダリングの構造。頂点に鶴岡武彦。業界側の統括者。シンジケートの実質的なオーナーです。次に神崎良一。行政側の頂点。ダンジョン庁の元幹部で、退官後はダンジョン安全推進機構の理事長。この二人が共謀して、朝日ダンジョン投資事業組合に出資し、洗浄スキームの受け皿を作った」
「水守達也は法的インフラの構築者。組合の運営管理者として、資金フローを合法に見せる仕組みを設計している」
「芝山幸雄は、神崎の直弟子。ダンジョン庁の監察官として、検査データと庁内情報へのアクセス権を持つ」
三人の視線が沢渡のノートの上で交差した。
沢渡がペンの先を止めた。
「芝山班長が特別査察班を率いている意味が変わりますね」
「変わります」
芝山は不正を暴くために査察班を作ったのではない。不正の調査がどこまで進んでいるかを監視し、管理するために自分が班長に座った。神崎の門番として。管理された調査。管理された真相究明。真実に近づきすぎた人間がいれば、芝山が手続きの名目で止める。検査記録の閲覧申請が十四日間止まっている理由は、ここにある。
「査察班は、管理のための装置だ」
堤が言った。わたしが考えていたことを、堤は一言で言い切った。
「だとすれば」
沢渡がペンを握り直した。
「わたしたちは管理者の中で、管理者に気づかれずに動いていることになります。いつまで持ちますか」
「長くは持ちません」
わたしは率直に答えた。ちらつき。視界の左端で、沢渡のノートの白い紙が一瞬黒く反転して戻った。
「Tier 4の反動で、四十八時間はスキルが使えません。その間に芝山が動けば、対応手段がない。やるべきことは一つです」
「芝山より先に、証拠を固める」
堤が代わりに言った。わたしは頷いた。
「四十八時間後にTier 4が戻れば、次はダンジョン安全推進機構の財務報告書を読みます。組合の決算書だけでは、洗浄の全体規模が分からない。推進機構の側からも、資金フローを確認する必要がある」
「推進機構の財務報告書は公開情報です。明日までに用意します」
沢渡が即答した。
堤が立ち上がり、窓の外を見た。竹橋の夜景。毎日新聞社のビルの灯り。首都高を走る車のヘッドライト。
「蓮田さんには報告するのか」
「四十八時間後に。スキルが戻ってからです。使えない状態で報告しても、蓮田さんを心配させるだけです」
「蓮田さんは心配する男じゃないだろう」
「心配はしませんが、マグカップのコーヒーが冷めるまで黙る人です。あの沈黙を、今のわたしは受け止められる自信がありません」
堤が鼻を鳴らした。笑ったのかもしれない。表情は変わらなかった。
わたしは帰り支度を始めた。鞄にファイルをしまい、コートを取る。デスクの上の決算書は引き出しに鍵をかけてしまった。芝山が見る可能性は低いが、可能性がゼロではない限り、露出させてはならない。
合同庁舎のエレベーターに乗った。反転した視覚のちらつきは、三十秒に一度の頻度で続いている。エレベーターの「五」のボタンの照明が一瞬だけ赤く見え、すぐ白に戻った。
竹橋の駅まで歩く。十一月下旬の夜気がコートの隙間から入る。冷たい。イチョウの落ち葉を踏む音。枯れた葉の乾いた感触が靴底を通して伝わる。
芝山の師匠がシンジケートの行政側の頂点にいる。なら、この査察班は何のために作られたのか。
答えは出ていた。管理のためだ。わたしたちの調査を、神崎のために管理するための装置。わたしは管理される側にいた。
四十八時間後に、管理を突破する。




