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ダンジョン保険の例外案件係に左遷された俺、【真贋鑑定】で業界の闇を全部暴く  作者: 夜摩 高嶺
第三部『シンジケート』

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第70話「貫通」

 翌朝。十一月二十六日、火曜日。


 わたしは六時に目を覚まし、七時半に合同庁舎に着いた。芝山の今日の予定は外出だった。午前十時から午後四時まで、ダンジョン庁本庁舎での定例会議。先週のうちに確認しておいたスケジュール。この日を選んだ理由を、堤にも沢渡にも説明する必要はなかった。


 堤が八時に来た。缶コーヒーを買わずに来ていた。手ぶら。沢渡が八時十五分。鞄から三色ボールペンとノートを出し、机に並べてから座った。三人とも、今日が何の日か分かっている。


「やるのか」


 堤が訊いた。


「やります」


 わたしは決算書をデスクに広げた。投資先別収益明細のページ。五か所の黒い長方形。昨夜、指先で感じた振動を、まだ覚えていた。紙の下に文字がある。その確信が一晩で薄れていないことを、まず確かめた。


 沢渡がノートとペンを構えた。赤と青と黒。金融庁時代の記録方式を今も使っている。


「読み取れた内容は、口頭で伝えてください。わたしが書き取ります」


「お願いします」


 堤が立ち上がり、事務室のドアを閉めた。廊下側の窓のブラインドも下ろす。芝山はいない。だが庁舎内の他の職員が通る可能性はある。


 午前八時二十三分。わたしは決算書の上に両手を置いた。指先が紙に触れる。上質紙の繊維の感触。黒塗りスタンプの化学的な臭気が、かすかに鼻を刺した。



 【真贋鑑定】を起動する。


 Tier 1。書類の上に色が広がった。決算書の既読部分は、もう見慣れた配色だった。利回りの数字は青。手数料は黄。投資先名の黒塗り部分は——黒。


 Tier 2。書類の構造が浮かぶ。フォーマットの骨格。行と列の設計。


 Tier 3。黒塗りの壁に触れる。深い隠蔽の反応。三日前と同じ厚さの壁。


 壁を、押した。


 押し返される。黒の密度は変わらない。


 もう一度。


 指先の下で、紙が震えた。昨夜よりも強い振動。文字が壁の裏側で動いている。一文字ずつ、浮き上がろうとしている。紙に染み込んだインクの重みが、黒いスタンプの下で声を上げている。


 声。音ではない。文字の震動を、わたしのスキルが振動として受け取っている。Tier 3にはなかった感覚だった。指先の神経が紙の繊維を透過して、インクの配列そのものに触れようとしている。温度がある。冷たくはない。インクが紙に焼きついた残熱のような、微かな温もり。


 三度目。壁を押した。指先ではなく、意志の全体で。


 査定員として書かれた文字を読む。それだけのことだった。わたしの仕事は最初からそれだけだった。銀行の融資担当者として七年。損保の査定員として半年。査察班の嘱託として一か月。書類を読み、書類の嘘を見抜く。十年近く、それだけをやってきた。その十年分の指先を、黒の壁に当てた。


 壁が、揺れた。


 視界が反転した。


 色が消えた。書類の青も赤も黄も、デスクの茶色も、堤のジャケットの灰色も、窓から差す朝の光も、全てが灰色に沈んだ。灰色の世界。音は聞こえている。空調の低い唸り。沢渡がペンを構える布の擦れる音。だが色だけが、世界から抜け落ちた。


 灰色の中で、黒塗りの下の文字が浮かび上がった。


 白い文字。


 暗号ではなかった。普通の日本語だった。明朝体の活字。黒いインクとデジタル暗号化の二重隠蔽で覆われていただけの、ただの文字列。それが今、灰色の視界の中で、白く発光している。


 第一行。出資者一覧。


 第二行。第一号出資者——鶴岡武彦。


 第三行。第二号出資者——ダンジョン安全推進機構理事長・神崎良一。


 第四行。第三号出資者——アークライト・リインシュアランス日本支社。


 第五行。運営管理者——水守達也。


「鶴岡武彦」


 わたしは声に出した。自分の声が遠い。灰色の世界の中でわたしの声だけが色を持っているように感じた。


「神崎良一」


「水守達也」


「アークライト・リインシュアランス日本支社」


 沢渡のペンが紙を走る音。書き取っている。わたしの声を通して、黒塗りの向こうの文字を記録している。


 頭が割れた。


 比喩ではない。こめかみではなく、頭蓋の全体が軋んだ。骨が歪む感覚。Tier 2の覚醒では右目の奥が熱くなった。Tier 3では鋭い痛みがこめかみを走った。Tier 4の反動は、それらを足したものの数倍の深さから来た。頭蓋骨の内側全体を万力で締め上げる圧迫。内側から外へ骨を押し広げようとする膨張。


 両目の視界が灰色から白に変わった。一面の白。何も見えない。


 暗転。


 色が戻った。ただし——反転していた。デスクの上の決算書の白い紙が青く見える。堤のジャケットが赤い。沢渡の黒髪が金色に光っている。天井の蛍光灯が暗い紫に沈んでいる。窓の外の空が橙色。全ての色が、補色に入れ替わっていた。


「宇津木さん!」


 沢渡の声が近い。


 膝が折れた。椅子から横に滑り落ちる。リノリウムの床が頬に触れた。冷たい。合同庁舎の床は三豊ビルより冷たかった。温度だけが正しい感覚だった。


 堤の手がわたしの肩を掴んだ。元刑事の掌は大きく、分厚い。


「おい。見えてるか」


「見えて、います。色が——違いますが」


「色?」


「反転しています。堤さんのジャケットが赤く見える」


「俺のジャケットは紺だ」


 紺が赤に見えている。赤と青が入れ替わっている。沢渡の白いブラウスが黒に見え、デスクの茶色が青緑に変わっている。反転した世界で、形だけが正しい。形状は歪んでいない。輪郭は鮮明。ただ、色だけが、全て裏返っている。


 沢渡がペットボトルの水をわたしの手に押しつけた。キャップを回す指に力が入らない。沢渡が開けてくれた。水を一口飲む。冷たさだけが正しい。温度は反転しない。


 有坂の軟膏が欲しい、と思った。右目の奥が燃えている。こめかみが脈動するたびに視界の色が揺れる。有坂なら軟膏を塗って、冷たい指先でこめかみを押さえてくれる。だがここは竹橋の合同庁舎だった。有坂は三豊ビル北館十二階にいる。片道四十分。電車で二回乗り換え。その距離が、今は遠い。


 堤がわたしの背中を壁に凭れさせた。硬い壁。コンクリートの冷たさが、背中から体温を奪っていく。


「沢渡。書き取れたか」


「全部書き取りました」


 沢渡がノートを堤に見せた。堤の目が細くなった。


「鶴岡武彦。神崎良一。水守達也。——三人の名前が、一枚の書類に揃ってやがる」


 わたしは壁に凭れたまま、天井を見上げた。天井は白いはずだった。反転した視界では暗い灰色に見える。蛍光灯の光が紫色で、その紫が灰色の天井に滲んでいた。


 色覚反転がいつ治るのか分からなかった。Tier 2の反動は半日で消えた。Tier 3は二日。Tier 4は——前例がない。わたし以外にTier 4を使った人間の記録は、どこにも存在しない。


 頭蓋の内側で、軋みがまだ続いている。鈍い圧迫が波のように寄せては引く。こめかみの脈動は収まらない。全Tierの使用が不能だと、体の奥が告げている。四十八時間か、七十二時間か。体が回復するまで、わたしの目は普通の人間の目に戻る。色の反転した、普通の目に。


 沢渡がノートを閉じ、わたしの顔を覗き込んだ。反転した視界の中で、彼女の眼鏡のフレームが金色に光っている。


「救急車を呼びますか」


「いいえ。——これは、スキルの反動です。医者には説明できません」


 堤が腕を組んだ。


「とりあえず休め。芝山が戻る午後四時までに、お前がここで倒れていたことを知られるわけにはいかない」


 わたしは頷いた。休憩室に移動する。堤の肩を借りて、廊下を歩いた。反転した色の廊下は水族館の中を歩いているような錯覚を与える。壁が青く、天井が暗く、非常口の緑色のサインが赤く光っている。


 休憩室のソファに横になった。合成皮革の匂い。クッションの硬さ。目を閉じると、暗闇の中にまだ白い文字の残像が浮かんでいた。


 鶴岡武彦。神崎良一。水守達也。


 三つの名前が、黒塗りの向こう側から出てきた。


 読めた。——黒塗りの向こう側を、初めて、読んだ。代価は、世界の色が反転したこと。

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