第69話「暗号」
黒塗りの決算書は、三日間、わたしのデスクの上にあった。
十一月二十五日、月曜日。竹橋合同庁舎の査察班事務室。午前八時四十分。朝日ダンジョン投資事業組合の決算書を開いたまま、わたしは投資先別収益明細のページを見つめていた。黒の長方形が五か所。三日前にTier 3で視たときと同じ深さの黒が、今朝もこちらを見返している。
堤が出勤してきた。ジャケットを背もたれにかけ、缶コーヒーを机に置く。ボスの微糖。堤はブラックを飲まない。甘い缶コーヒーを飲む元刑事を、最初は意外に思ったが、もう慣れた。
「まだ、読めないか」
「読めません」
堤は頷いただけだった。余計なことを言わない男だった。組織犯罪対策課で十五年、寡黙さが体に染みついている。その寡黙さが、今は助かる。
沢渡が定時ちょうどに来た。傘を畳みながら、眼鏡の曇りをレンズ拭きで取っている。十一月下旬の東京は、朝の湿度が高い日が続いていた。
「宇津木さん。暗号解読の件、週末に調べました」
沢渡が椅子に座り、ノートを開いた。金融庁時代のメモの取り方が残っている。数字は赤、固有名詞は青のボールペンで色分けされている。
「この黒塗り文書の暗号化方式を特定できれば、民間の暗号解析会社でも復号は可能です。ただ、組合が使っている暗号化ソフトの特定には、デジタル版のヘッダ情報が必要になります」
「ヘッダは」
「暗号化されています。物理的な黒塗りと、デジタルの暗号化。二重の壁です」
二重の壁。片方だけなら突破の手がかりはある。だが両方を同時に突破しなければ、投資先別収益明細には辿り着けない。鶴岡武彦と神崎良一の名前が、その壁の向こう側にあるのか、ないのか。それすらまだ分からない。
「沢渡さん、金融庁の暗号解析部門に照会することは」
「可能ですが、公式照会になります。照会記録が残ります。芝山班長の目に触れる可能性は——高いです」
沢渡が眼鏡のブリッジを指先で押した。彼女なりの逡巡の仕草だった。
*
午前十一時。堤がわたしの席に来た。
「暗号解析の専門家に心当たりがある。警視庁の科捜研にいた男だ。三年前に退職して、渋谷でセキュリティ会社をやっている。飯田というんだが」
「頼めますか」
「頼める。ただし——」
堤が声を落とした。事務室には芝山の席がある。今は空席だが、壁が薄い。
「庁内の暗号解析チームに依頼すると、芝山に知られる。依頼は班長の決裁を通す必要があるからな。民間に出すなら、査察班の名前は使えない」
「個人の依頼として出す」
「そうなる。費用は俺が立て替える。領収書は後で蓮田さんに回せばいい」
堤の判断は速い。元刑事の行動力だった。だが、暗号解析には時間がかかる。
「どのくらいかかりますか」
「暗号化方式の特定だけで一週間。復号に成功しても、中身がさらに別の暗号で保護されていれば、そこからまた一週間。最短で二週間だ」
二週間。その間に芝山が動けば、データそのものが消える。検査記録の閲覧申請はすでに十四日間、承認が下りないまま止まっている。芝山が意図的に止めているとすれば、こちらの動きを察知した段階で、証拠の処分に着手するだろう。
「急いでもらえますか」
「言ってみる。だが、飯田は仕事が丁寧なぶん遅い。短縮は難しいかもしれん」
堤が席に戻った。わたしは決算書を見た。黒塗りの長方形。二週間、この壁の前で待つことになる。あるいは、二週間後に壁が崩れなければ、別の方法を探すことになる。
どちらにしても、わたしの手元にある道具では足りなかった。
*
午後三時。芝山が外出先から戻った。
廊下で擦れ違ったとき、芝山は穏やかに微笑んだ。ネクタイは紺、靴は磨かれている。四十五歳の監察官は、いつも清潔だった。
「宇津木さん、黒曜の件はどうですか」
「書類を精査中です。もう少し時間がかかりそうです」
「焦る必要はないよ。丁寧にやってくれ」
青。焦る必要がないという助言は本心だった。しかし、助言の下にもう一層の色があるかどうかは、Tier 1では判断できない。芝山の言葉はいつも、表面だけが正しい。
芝山が執務室に入っていった。ドアが閉まる音。合同庁舎の重い防火扉の音は、三豊ビルのアルミドアとは違う。低くて、鈍い。
堤が隣の席から、ペンで自分のこめかみを軽く叩いた。何も言わない。目だけがわたしを見ている。
わたしは頷いた。芝山の前では、黒塗り文書のことは話さない。三人の暗黙の了解だった。
*
午後六時。沢渡が先に帰った。堤は七時に席を立ち、「飯田に連絡する」とだけ言って出ていった。
わたしは一人で残った。
査察班の事務室は、竹橋合同庁舎の五階にある。窓からは毎日新聞社のビルが見える。この時間、新聞社のフロアはまだ明るい。締め切り前の記者たちが動いている。
天井の蛍光灯を消した。デスクライトだけにする。暗いほうが、書類に集中できる。三豊の第三課でもそうだった。蓮田が退勤した後、わたしは蛍光灯を消して、デスクライトの下で書類を読んだ。あの部屋の蛍光灯は一本、ちらついていた。この部屋の蛍光灯はちらつかない。新しい建物だからだ。それだけのことなのに、暗くした部屋の中で、わたしはあのちらつきを探している自分に気づく。
黒塗りの決算書を、もう一度、開いた。
投資先別収益明細のページ。五か所の黒い長方形。三日前と同じだった。何も変わっていない。変わるはずもない。紙に塗られた黒のインクは、待っていても消えない。
わたしは右手の指先を、黒塗りの上に置いた。
紙の感触。普通の上質紙。七十キロ。自治体の提出書類に使われる標準的な厚さ。黒塗りの部分だけ、インクの厚みで微かに凹凸がある。人の手で塗ったのではない。スタンプか、あるいはシールの類だった。端が直線で揃いすぎている。
Tier 1。色の気配。黒塗りの下に、何かがある。
Tier 2。書類の構造が視える。投資先別収益明細のフォーマットは、行ごとに投資先名、出資額、利回り、備考欄で構成されている。五か所の黒塗りは、いずれも投資先名と出資額の列を覆っている。利回りと備考欄は塗られていない。利回りは年三・二パーセントから五・七パーセント。合法的な投資としては、やや高いが異常値ではない。
Tier 3。隠蔽の黒。深く、分厚い。桐生の回答書の黒とは質感が違った。桐生の黒には嘘と真実が混在していた。芝山の黒には、真実の上にもう一枚の真実が重なっていた。この黒塗りには、何もない。意図的な隠蔽を示す反応だけが返ってくる。壁。ただの壁だった。
壁を、押した。
意志で。指先に込めたのは物理的な圧力ではなく、書類の上の文字を読みたいという、査定員としての一念だった。
押し返された。
もう一度。
指先に、振動が走った。
ごくかすかな震え。紙の繊維が揺れたのか、わたしの指が震えたのか。区別がつかなかった。だが一瞬、黒塗りの下で、文字の輪郭が動いた気がした。光を求めて浮き上がろうとする文字の、残像。視認はできていない。Tier 3の視覚ではまだ届かない。
だが、指先は覚えていた。紙の下に文字がある、という物理的な確信。インクが紙に染み込んだ重み。黒で覆われていても、文字そのものは消えていない。消えないなら、読める日が来る。
わたしは手を引いた。
午後九時十七分。窓の外に竹橋の夜景が広がっている。首都高速の車列がテールランプの赤い線を引きながら流れていく。その赤が、わたしの右目の奥で、かすかに滲んだ。空調の乾いた風がうなじに触れる。書類の紙のインクの匂いが、鼻の奥に残っている。
書類は嘘をつかない。——たとえ、黒で塗り潰されていても。




