第68話「組合」
十一月二十二日、金曜日。午前九時。
観察の一週間が四日目に入っていた。
堤と沢渡とわたしの三人で、芝山を観察すると決めた火曜から三日が経つ。三人とも、芝山には「黒曜の調査を継続中」とだけ報告していた。水守達也の名前は出していない。朝日ダンジョン投資事業組合の名前も出していない。
芝山の動きには、表向き不審はなかった。班長として通常通り班員の業務を見ていた。
ただ、検査記録の閲覧申請はまだ承認が下りていなかった。十一日経過。
わたしたちは別ルートで、独自に調査を進めていた。
*
午前九時半。
沢渡が新しい紙の山を机に出した。
「朝日ダンジョン投資事業組合の資金フローを追跡しました」
彼女の声にはいつもの会計士らしい平静さに、わずかに固いものが混じっていた。
「組合の出資元は複数あります。クランの設立に出資する側、つまりお金を出す側です。出資元の一覧を辿りました」
沢渡が一覧表を出した。法人名が十数件。投資ファンド、銀行系投資会社、それから——
「これを、見てください」
沢渡が指で一行を示した。
「一般財団法人 ダンジョン安全推進機構」。
わたしは、その文字を、ゆっくりと読んだ。
「ダンジョン安全推進機構」
「ダンジョン庁の、外郭団体です」
沢渡が言った。淡々とした声を保とうとしていたが、語尾がわずかに乾いた。
「ダンジョン安全推進機構はダンジョン庁の元幹部が天下る代表的な外郭団体の一つ。安全啓発、業界統計、研究助成などを名目に、ダンジョン関連企業から会費を集めて運営されています」
「この機構から、朝日ダンジョン投資事業組合に、出資が流れている」
「ええ。年間、三億円です」
「名目は」
「『ダンジョン関連産業の振興』。事業投資という形になっています」
「機構の代表は、どなたですか」
「公開情報では、理事長は神崎良一氏。元ダンジョン庁の幹部です」
神崎良一。
わたしの中で、その名前はまだ意味を持たなかった。聞いたことのない名前だった。だがメモにその名前を一行、書き残した。書き残すには字数が少ない名前だった。
しかし、ダンジョン安全推進機構の理事長が朝日ダンジョン投資事業組合に出資の判断をしているのなら、神崎の判断が洗浄構造の中継点になっているということを意味する。
わたしはその判断を、後回しにした。先に黒曜の決算書を読む。それが査定員の順序だった。
*
昼休み。
わたしと堤と沢渡で、合同庁舎の地下食堂に降りた。食堂は混んでいた。出入り口に近い四人席をわたしたちは占めた。沢渡はサラダ、堤はラーメン、わたしは蕎麦。
ラーメンに口をつける前に、堤が言った。
「俺の組対時代の言い方をすると、これは『典型』だ」
「典型、というのは」
「合法的な投資という形で、不正資金を還流させる。投資という言葉は結果が出ても出なくても許される。十年単位で観察しないと、不正資金の還流であることを立証できない。そこに、外郭団体を経由させる。外郭団体は所管官庁の権威を借りて『合法』のラベルを発行できる」
「外郭団体が、洗浄資金の受け皿になる」
「組対では昔から見てきた構造だ。建設業、廃棄物処理、それから最近じゃ介護報酬の不正請求。今回はダンジョン産業。新しい業界に同じ手口が来てるってことだな」
堤が箸を伸ばした。沢渡は食事の手を止めて、メモを取っていた。
「宇津木さん」
「はい」
「全体の絵を書いてみてください」
沢渡がそう言った。
わたしは紙の余白にペンを走らせた。
クランが架空事故で保険金を受け取る。保険金は再保険によって海外のアークライト・リインシュアランスに転嫁される。アークライト側で「事故が多い」とされた結果、日本の保険会社は再保険料を引き上げる。引き上げの差額が国内側でプールされる。プール資金は朝日ダンジョン投資事業組合に流入する。組合はその資金を、ダンジョン関連企業への「投資」として運用する。一部はダンジョン安全推進機構を経由して、合法的な投資のラベルを得て還流する。
書きながら、わたしは思った。
これは、保険金そのものを洗うのではない。
保険金として支払われた金は、いったん海外に出て海外で「損失」として処理される。その損失処理の代償として、国内側で再保険料が値上げされる。値上げ分が国内の保険会社のプールに残る。そのプールがファンドへの「投資」という形で抜き出される。
仕組みの本質は、「再保険料の値上げ」を介して、保険金詐欺を保険会社の合法的な経営判断に変換することだった。
「ダンジョン・ロンダリング」
わたしは口の中で言った。
「ええ」
沢渡が頷いた。
*
午後三時。執務室。
沢渡が、朝日ダンジョン投資事業組合の二〇二三年度決算書のコピーを机に置いた。
「組合は毎年、簡易な決算書を都に提出しています。これがその写しです」
わたしは決算書を開いた。
貸借対照表、損益計算書、注記。
しかし——
注記の中盤、最も重要な「投資先別収益明細」のページ。
黒い長方形が五か所に塗られていた。
物理的な黒塗りだった。元の書類が紙で提出されている。提出元が紙の段階で、黒のインクで該当箇所を塗りつぶしている。書類のページの上で、黒の長方形が行を覆っていた。
黒塗りは公開書類における通常の手続きでも見られる。個人情報の保護、企業の機密保護。理由はさまざまだった。しかし、組合の決算書の投資先別収益明細をここまで広く黒塗りする例は一般的には少ない。
わたしは黒塗りの紙の上に、手を置いた。
【真贋鑑定】を起動する。
Tier 1で視る。書類の上の文字には青と赤と黄が混ざっている。書類全体としては合法的な決算書として作られている。
Tier 2で視る。書類の構造を視る。決算書のフォーマット自体は組合決算の標準的なものだった。
Tier 3で視る。黒塗りの部分に視線を集中する。
黒の上に視覚的な反応が、ある。
半透明の、黒の塊。書類の他の部分の黒——例えば見出しの黒字とは、性質の違う深い黒。【真贋鑑定】の判定で言えば、「意図的な隠蔽」を意味する色の反応。
ただし、黒塗りの「下」は読めない。
Tier 3は、書類の上に書かれたあるいは書かれなかった言質の真贋を判定する。書かれた文字の上に色が走る。書かれなかった事項にTier 3は届かない。
黒塗りされた部分は、書類の上に文字が「ある」のに、わたしの視覚から物理的に遮断されている。書類の上の文字は存在している。だが、わたしの目には、ない。
Tier 3は、ここで止まった。
「隠蔽を貫通できない」
わたしは小さく言った。
「——今のわたしのスキルでは」
堤が、わたしの背後から決算書を覗き込んでいた。
「読めないのか」
「読めません」
堤が長く息を吐いた。沢渡がこめかみに指を当てた。
決算書のページの上で、黒の長方形が五つこちらを見ていた。
半年前、桐生鷹志を相手にしたとき、わたしは書類の上の嘘を色で見抜いた。三か月前、鶴岡武彦の回答書を読んだとき、わたしは書類の表面の黒一色を見極めた。そして今、わたしの前にあるのは、書類の上に書かれた文字を物理的に塗りつぶされた壁だった。
Tier 3までの力は書類の上に何かが書かれていることが前提だった。書かれていない場所、見えない場所には、わたしのスキルは届かなかった。それは、桐生が忠告した、わたしの能力の境界の一つでもあった。
壁の向こう側に、文字がある。
その確信だけが、わたしの中にある。
黒塗りの向こう側に、全ての答えがある。——だが、今の力では届かない。




