第67話「五社の糸」
十一月十九日、火曜日。午前八時五十分。
わたしは出勤前に、合同庁舎の一階のロビーで沢渡と待ち合わせた。彼女のほうが先に来ていた。両手で大きな封筒を抱えている。眼鏡がまだ朝の外気で少し曇っていた。
「宇津木さん。出ました」
「何が」
「翡翠の登記情報の追跡分。それから、赤銅と錫の設立時出資者名簿の写しです」
「どこで」
「金融庁時代の伝手で、商業登記の取得代行業者に頼みました。公開情報の範囲ですが、登記の沿革ごと全部辿ると、表に出てこない接点が出てきます」
沢渡は封筒を抱えたままロビーの端のソファに座った。わたしは隣に座った。彼女は封筒から書類の束を出した。
*
九時十五分。
執務室の自分の机で、沢渡が分析結果を一枚にまとめて出してくれた。
黒曜株式会社、二〇一九年五月設立。翡翠株式会社、二〇二〇年三月設立。赤銅株式会社、二〇二〇年八月設立。
設立時期が近い。一年半の間に三社。
そして、三社の設立時出資者名簿に同じ名前のファンドが入っていた。
「朝日ダンジョン投資事業組合」。
黒曜の設立時の出資額は組合から二千万円。翡翠は組合から三千万円。赤銅は組合から二千五百万円。
「朝日ダンジョン投資事業組合」。
組合名を口の中で繰り返した。聞き慣れない名前だった。ダンジョン関連の投資ファンドは、業界全体で十社程度。大手のいくつかはわたしも社名を知っていた。だがこの組合は知らなかった。
「沢渡さん。この組合、業界では」
「無名です。投資組合の登録自体は東京都の財務局に届出がありますが、対外的な活動はほとんどない。ホームページもありません」
「組合の運営者は」
「これから、堤さんに調べてもらいます」
*
午前十時半。
堤が外回りから戻ってきた。商業登記情報の追加分を彼が取りに行ってくれていた。コートの肩に、新宿駅の構内から運んできたらしい雨の匂いが残っていた。今朝、新宿のあたりは小雨だったと彼が言った。
「朝日ダンジョン投資事業組合の運営者は——法人だ」
堤が机にコピーを置いた。
「法人なのか」
「ああ。組合の運営管理者として登記されてるのは、一般社団法人朝日コンサルティングという団体。設立は二〇一八年。本社は港区赤坂八丁目。代表理事——」
堤が指でコピーの一行を示した。
わたしは、その名前を、読んだ。
水守達也。
水守達也は雷電の代表である鶴岡武彦の代筆者だった。半年前の冤罪編で対峙した法律家。回答書の起案者。金融庁への答弁書を書いた男。鶴岡の法的攻撃の実動者。
その水守の名前が、朝日コンサルティングの代表理事として、登記の上にあった。
わたしは背筋を伸ばした。椅子の背もたれに預けていた体重を一気に前に移した。
「水守がクランの出資元です」
わたしは言った。
「ええ」
沢渡が眼鏡の奥で目を細めた。
「水守達也は弁護士です。弁護士が一般社団法人の代表理事に就任するのは、法的には問題ないが、業務として手広い」
「弁護士業務だけではこういう構造は作れない」
堤が低く言った。
「ファンドを作って、クランの設立に出資する。設立されたクランから、保険金請求を量産させる。請求は再保険でアークライトに転嫁される。クランの利益は、別ルートでファンドの出資元に戻る——そういう設計図が組合と社団法人の登記の上に薄く描かれている」
「クランの設立から、再保険洗浄、ファンドへの還流まで、一つの構造が見えてきます」
沢渡が紙にペンを走らせた。
クラン→保険金請求→再保険転嫁→海外側で損失計上→国内側で再保険料引き上げ差額プール→ファンドへ還流→社団法人経由で「投資」として合法化。
水守達也はこの構造の、法的な設計者だった。
彼は鶴岡の代筆者であると同時に、シンジケートの法的インフラを構築している人間。法の刃はまだ鞘の中にある。鞘そのものが彼の作った構造だった。
「沢渡さん」
「はい」
「水守の名前を表に出すのは、まだ早いですね」
「ええ。水守はおそらく、自分の名前が登記に残っていることを当然のように把握しています。登記情報は公開ですから、調べれば誰でも辿れる。それでも、登記の上に名前を残したのは、彼の戦略です」
「戦略、というのは」
「弁護士が一般社団法人の代表理事になることは、形式上、合法です。違法ではない以上、それを問題視するには、彼の業務全体の構造を立証しなければならない。彼は、合法の積み重ねで作られた違法構造を合法の側に着地させる設計をしている」
沢渡の指が登記簿のページの上を、なめらかに動いた。
「金融庁にいたとき、似た構造を一度見たことがあります。投資ファンドと金融商品を組み合わせて、ファンドの損失を投資家側に転嫁する設計。一つ一つの取引は合法。組み合わせると、損失の押し付けになる」
「水守は、その流派ですか」
「もっと洗練されている、と感じます。金融庁案件の弁護士はせいぜい一つの構造を作るだけです。水守は業界横断で、複数の構造を同時に走らせている」
*
午後一時。
わたしは沢渡と堤の三人で、執務室の会議机を囲んでいた。芝山は外出中。午後に金融庁との打合せに行っていた。
「芝山さんに報告しますか」
沢渡が小さく尋ねた。会計士らしい、確認の声だった。
わたしが答える前に、堤が言った。
「報告するな」
堤の声は、低く、はっきりしていた。
「——まだ、班長が白か黒か、分からない」
沢渡が眼鏡を押し上げた。
「組対の」
「ああ。組対の判断だ。情報を上に流すには早い。先週からの『遅い承認』。これがどこで止まっているか、まだ特定できていない。班長が止めているなら、報告すれば情報が漏れる。班長が止めていないなら、報告したほうがいい。先に、班長が止めているかどうかを別ルートで確かめる」
沢渡が、十秒ほど黙った。
「ただし」
彼女が口を開いた。
「報告しないことも、報告することと同じくらい判断を要します。報告しない期間が長くなれば、後から『なぜ報告しなかったか』を問われる」
「もちろんだ」
堤が頷いた。
「だから、一週間だ。一週間だけ班長の動きを観察する。一週間で班長の白黒を見極める。その間は報告を保留する」
わたしは頷いた。
「一週間です」
沢渡も、頷いた。
わたしは机の上に手を組んだ。三人で、班長を観察する週が始まる。半年前の自分には、考えられなかった動き方だった。芝山幸雄という人間を味方として信じてきた半年。その信を、一週間だけ保留する。
信じたい相手を疑うのは、嘘を見抜くより難しい。
*
午後七時。
わたしは執務室に一人残っていた。机の上に水守達也の登記情報のコピー。窓の外、皇居の堀。
半年前、第三課のデスクの壁に貼った付箋をわたしは思い出した。『水』。半年間、剥がさないままだった付箋。
付箋の文字は、今も、こちらを見ている。
壁の付箋はもう剥がせない状態になっていた。剥がすには、水守達也そのものを片付ける必要があった。半年前は法廷で対決した。今度は、構造そのもので対決することになる。
わたしは机の引き出しを開けた。三豊ビルから持ってきた付箋の予備束。黄色い小さなノート型の束。ペンを取って、一枚に文字を書いた。
『朝日』。
朝日ダンジョン投資事業組合。一般社団法人朝日コンサルティング。「朝日」という名前を二つの団体に重ねて使っている。これも水守の手口の一つだった。同じ名前を別の法人に冠することで、外から見たときの境界線を曖昧にする。
わたしは付箋を執務室の机の天板の隅に貼った。竹橋の合同庁舎の机に、初めて一枚の付箋が貼られた。
第三課の壁の六枚と、ここの一枚。
七枚目だった。




