第66話「点検日」
十一月十八日、月曜日。午前九時十五分。
わたしは黒曜の請求書類七件分の提出日リストを、机に並べていた。
二〇二三年六月二十日。二〇二三年九月十二日。二〇二三年十二月十九日。二〇二四年三月十一日。二〇二四年六月十三日。二〇二四年九月十七日。二〇二四年十二月二十四日。
七件。
別の紙にダンジョン庁検査課が新宿第三ダンジョンに入った定期点検日を並べた。検査課の公開スケジュールは官報に出ている。年に四回の定期点検と、年に二、三回の特別点検。
二〇二三年六月十九日。九月十一日。十二月十八日。二〇二四年三月十日。六月十二日。九月十六日。十二月二十三日。
黒曜の請求提出日とダンジョン庁の定期点検日の関係。すべての請求が点検の「翌日」に出ている。七件中、七件。例外なし。
半年前のこの発見を、わたしは思い出した。
雷電の二十三件を分析していたとき、第三課で同じパターンを見つけたことがあった。請求日がダンジョン庁定期点検日と相関する、と当時のメモに書いた。あの時点では二十三件のうち十五件が一致、という割合だった。
いま黒曜では、七件中七件、つまり全件が一致する。
雷電のときより、相関が強い。
わたしはペンを置いた。
*
十時。芝山の班長席。
わたしはふたつの表を並べて見せた。
「芝山さん」
「ええ」
「黒曜の請求書類の提出日がダンジョン庁検査課の定期点検日の翌日に集中しています」
芝山が表に目を落とした。彼の右手のペンが紙の上を一往復した。検査日と請求日の対応を自分の目で確認している。
「七件すべてですね」
「ええ」
「興味深いですね」
芝山が言った。穏やかな声だった。表向きの色は、青。彼の関心は本物だった。
「定期点検を行うのは、検査課ですね」
わたしは確認した。
「ええ。検査課は監察官系統とは別の部署です。所管は安全管理局の検査部の下」
「芝山さんは検査データにアクセスできますか」
「もちろん。監察官の権限で閲覧可能です」
芝山が言った。普通の声だった。事実として、監察官は検査データを閲覧する権限を持っている。それは制度上当然のことだった。
わたしは芝山の机を辞した。
彼の言葉は青のまま、揺れていなかった。揺れていないということは、彼が「閲覧可能である」という事実を、まっすぐに認めたことを意味する。
わたしは芝山が動揺しないことを、奇妙だと感じた。
動揺すべき情報をわたしは差し出した。請求日と点検日が「翌日に集中している」というのは、検査データが点検後に書き換えられている可能性を示唆している。検査データの改竄が疑われるということを、芝山は理解できる立場にある。理解できる人間が理解できる情報を受けたときに、表情が動かない。
考え方は、二つあった。
ひとつ。芝山はその事実をすでに把握していて、今さら驚くようなことではない。
ふたつ。芝山はその事実をいま初めて聞いて、にもかかわらず、驚かない訓練ができている。
どちらにせよ、芝山にとってこの相関は「新しい情報ではない」。
わたしは執務室に戻る間、自分の足音にわずかな違和感を覚えた。革靴の底が廊下のリノリウムを叩く音。普段より少し響いた。
*
午前十一時。
わたしは執務室の電話の受話器を取って、第三課にかけた。蓮田の番号。三コール。
「ああ、宇津木か」
「蓮田さん。十分、いいですか」
「言え」
わたしは黒曜の請求書類の提出日とダンジョン庁の定期点検日の相関を数字だけで伝えた。蓮田が受話器の向こうで、何かをデスクに置く音。コーヒーマグでも、ボールペンでもないものの音だった。たぶん、書類の束。
「七件、全部一致か」
「ええ」
「定期点検日に請求が集中する理由は一つだ」
蓮田が言った。
「点検後に、データが書き換えられてるんだよ。——点検官が共犯か、点検後のデータを改竄する権限を持つ人間がいる」
「ええ」
「点検が入る。点検結果のデータが安全管理局の検査部に集まる。そこで、データの一部が点検後に書き換えられる。書き換えられた『安全な検査結果』が公式記録になる。書き換えられた結果を根拠に翌日、クランが事故報告書と請求書類を作る。書き換えられた検査記録に基づいた事故報告は、形式上整合する」
「整合してしまう」
「整合しちまうんだ。点検記録と事故報告がお互いを支え合うようにできてる。——書類は嘘をつかない、なんてもんじゃない。書類同士がお互いの嘘を補強し合ってる」
「補強の鎖が検査部から、保険会社の引受部門まで延びている」
「延びてる。途中に必ず、書き換える人間がいる」
受話器の向こうで、蓮田の缶コーヒーの口がデスクに置かれる音。
「宇津木」
「はい」
「点検後にデータを書き換える権限を持ってる人間ってのは、検査部の中の管理職か、その上の安全管理局の幹部か、あるいは——」
蓮田が一拍置いた。
「監察官だ。監察官は検査データを閲覧するだけじゃなく、検査結果に対する『監察意見』を付記する権限がある。意見を付記する権限ってのは、実質書類を書き換える権限と紙一重だ」
「ええ」
「お前は今、誰の机の前にいる」
「執務室の自分の席です」
「いいか宇津木、慎重に動け。書類の上流に座ってる人間と、机を並べて仕事してる可能性がある」
「分かっています」
わたしは受話器を置いた。
受話器を戻したあと、机の上の七件の表をもう一度眺めた。点検翌日に集中する請求日。検査と請求の間にある、たった一日の隙間。書類はその一日の中で書き換えられる。書き換えるのは人だった。人の名前は書類の表には出てこない。
名前を出させる、というのは半年前から続いている課題だった。書類の上に名前を載せない人間を、どう書類の上に呼び出すか。雷電の件で桐生という名前は出させた。だが、その上にいた鶴岡は結局、初署名以外の文字を残さなかった。
そして今、芝山の上に別の名前があるはずだった。誰の名前か、わたしはまだ知らない。
*
午後四時。
わたしは芝山の執務室の前にいた。報告に行くつもりだった。検査記録の閲覧申請の催促と、相関分析の補足を伝える予定だった。
ドアの手前で、足を止めた。
芝山の執務室のドアは半分閉まりかけていた。完全に閉まる前のわずかな隙間。芝山の声が低く、漏れていた。電話をしている。相手は誰か、聞き取れない。
声の内容は聞こえない。だが、声の調子だけが漏れていた。
硬かった。
半年前にダンジョン庁の監察官として三豊ビルに来たときから、芝山の声にはいつも一定の柔らかさがあった。冷静で、誠実で、相手を立てる調子。それが彼の声の癖だった。
ドアの隙間から漏れる芝山の声には、その柔らかさがなかった。
わたしはドアの前で二歩後ろに下がった。廊下の窓の外に目を向ける。皇居の堀の向こう、北の丸公園の木立。十一月の風が枝先を揺らしていた。空調の吸気口からわずかな音がする。
わたしは廊下を来た方向に戻った。
報告は、明日でいい。
執務室に戻ると、堤と沢渡が顔を上げた。沢渡が「どうしました」と小さく聞いた。
「いえ。芝山さんは電話中でした」
「ふうん」
堤がそれだけ言った。彼の目はわたしの動きを見ていた。組対十五年の刑事の目。彼は、わたしが芝山の執務室の前で何かを判断して帰ってきたことを、すでに見抜いていた。
芝山さん。——あなたは、どちら側にいるんですか。




