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ダンジョン保険の例外案件係に左遷された俺、【真贋鑑定】で業界の闇を全部暴く  作者: 夜摩 高嶺
第三部『シンジケート』

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第65話「壁」

 十一月十五日、金曜日。午前十時。


 わたしは特別査察班執務室の机に申請書を一枚置いた。「ダンジョン関連産業不正監視特別班 第二号情報提供依頼書」。宛先はダンジョン庁検査部。内容は雷電・黒曜を含む再保険ポートフォリオ五社の過去五年間の定期検査記録の閲覧。


 申請書には芝山班長の捺印がすでに押されていた。


 芝山は朝一番でハンコをくれた。彼の机の前で申請書をひと通り読み、頷き、印を押した。「庁内の手続きを経由します。早ければ来週月曜には」と短く言った。わたしは礼を言って、申請書を総務担当の事務官に渡した。


 それが、月曜の朝の話だった。


 今は金曜の午前十時。


 申請書は、まだ動いていない。



 わたしは庁内システムの申請追跡画面を開いた。


 状況欄に灰色の文字で「上席の決裁待ち」と表示されている。月曜の昼からずっとこの表示のままだった。月曜の夕方、火曜の朝、水曜、木曜、そして今朝。同じ表示。


 検査部の検査記録というのは、本来所管課が同じダンジョン庁内で起案された依頼であれば、二日から三日で承認が下りる種類のものだった。芝山の班は監察官系統の上席を経由する。経由する上席は二人か三人。そのうちの誰かが止めている。


 わたしは画面を閉じた。


「堤さん」


 わたしは隣の机に声をかけた。堤は朝から、雷電関連の所轄署の捜査資料に目を通していた。


 堤が顔を上げた。


「どうした」


「少し、廊下に出ましょうか」


「ああ」



 給湯室の前の小さなスペース。自動販売機が二台並んでいる。隣に紙コップ式のコーヒーマシン。誰もいなかった。堤がポケットから硬貨を出して、コーヒーマシンの口に投入した。紙コップが落ちる音。湯が注がれる音。


「申請が止まっています」


 わたしは言った。堤は紙コップを受け取った。


「ああ。俺もそう思ってた」


「思っていた、というのは」


「あんたが月曜に芝山に押させた申請。今週中に下りる種類のもんじゃないと見てた」


「分かるんですか」


「組対で十五年やった。——この手の『遅い承認』は、上が止めてるんだ。意図的にな」


 堤が紙コップを口元に運んだ。一口飲んで、顔をしかめた。


「不味い」


 わたしは小さく笑った。組対の刑事だった男にとって、この国の自販機のコーヒーは、たぶんずっと不味いままだった。


「誰が止めていると思いますか」


「分からん」


 堤はそう言って、紙コップの縁を指で押した。プラスチックの薄い壁がわずかに歪む。


「だが、芝山班長は知ってるはずだ。——班長が請求を出したのに、班長の上が止めてる。つまり、班長より上に止めたい人間がいる」


「班長は止められていることを承知している」


「あるいは、止めるよう仕向けている。どっちかだ」


 堤はそれ以上、言わなかった。だが、組対十五年の経験は彼に二つの可能性のうち、一つを選ばせていた。それがどちらかは堤は口にしなかった。わたしも聞かなかった。


「宇津木さん」


「はい」


「俺はあんたに警察の頃と同じ話をしたい。——上が止めてる承認を、現場が表で動かしに行くのは、たいてい悪手だ」


「悪手、というのは」


「下が騒ぐと、上は急いで別ルートで証拠を消す。あんたが今、声を上げて検査記録を取りに行こうとすると、検査記録のほうが先に書き換えられる」


「ええ」


「ここは、待つ振りをしながら、別ルートで取りに行くのが組対のやり方だ。あんたのスキルは書類が出てくるまで使えない。だが、書類を出すために動くやつの動きは出てこなくても見える」


 堤が紙コップを自販機の脇のゴミ箱に落とした。乾いた音。彼は組対の言葉で、わたしに方針を渡してきていた。



 午前十一時。


 わたしは芝山の班長席の前に立った。芝山はパソコンの画面を見ていた。


「芝山さん。月曜に出した検査記録の閲覧申請ですが」


「ああ。状況は」


「月曜の昼から上席の決裁待ちのままです」


 芝山は画面から目を上げた。


「四日。長いですね」


「ええ」


 芝山が小さく頷いた。彼は申請追跡画面を自分の端末で開いた。マウスのクリック音。


「ふむ。たしかに止まっていますね」


 彼は手を顎に当てた。


「上席を確認します。庁内の手続きは時間がかかる。——少し待ってくれ」


 芝山の言葉。


 わたしは色を受けた。


 青と黒の、混合だった。


 「庁内の手続きは時間がかかる」——これは青。一般論として、事実官庁の手続きは時間がかかる。芝山はそれを本気で言っている。


 「少し待ってくれ」——これも青。彼自身は、待たせるつもりがある。


 しかし、その下にある層。なぜ手続きが遅いのか、その理由を彼は説明しなかった。説明しないことが黒だった。彼は理由を知っている。知っていて、言わない。


 わたしは頷いた。


「お願いします」


 芝山の班長席を辞した。



 午後一時。


 昼食を取らずに、執務室に戻った。沢渡がすでに机の上に新しい紙の山を作っていた。


「宇津木さん。検査部の検査記録、出ないですよね」


「出ません」


「金融庁時代の同僚に頼んで、別ルートで取ろうとしたんですが——」


 沢渡が首を振った。


「公開部分から再構成を試みます。検査結果の要約は官報の公示や、業界団体の年次報告書に部分的に出ています。完璧ではありませんが、五社のうち雷電と黒曜と翡翠の三社については、概略が見えてきました」


 沢渡が紙の山から一枚を取り出した。彼女が手書きで起こした、再構成表。


「翡翠は二〇二〇年設立。本社は中央区銀座七丁目の雑居ビル。代表は元B級探索者の北見という男。請求パターン、再保険先、書類の粗さの場所——すべて、雷電・黒曜と同じ系列です」


「ありがとうございます」


「これで、足りますか」


 沢渡が眼鏡のフレームを指で押し上げた。


「足りません」


 わたしは言った。


「——でも、足りないことが一つの情報です」


「情報、というのは」


「公開ルートだけで三社まで再構成できた、ということ。残る二社、赤銅と錫は公開ルートでは情報が薄い。情報が薄いということは、隠蔽の濃度が高い。これは、五社の中での序列が別の側面から見えるということです」


 沢渡が紙にメモを書き取った。


「序列、ですね」


「ええ。五社が並列にいるのか、それとも、五社の中にも上下があるのか。これは、序列がある証拠です」


「雷電が頂点、ですか」


「いえ」


 わたしは首を振った。


「雷電はすでに行政処分を受けています。表側で叩かれている。叩かれているクランを頂点に置く設計は、不正の側からすると、悪い設計です」


「雷電は、捨て駒に近いと」


「捨て駒、と言うと強すぎますが——前線です。前線が叩かれた今、後方にいるクランが温存されているはずです。情報が薄い赤銅と錫の側に頂点に近い人間がいる可能性が高い」


 沢渡がメモにアルファベットを書き加えた。「A=赤銅/錫?」と。



 午後六時。


 わたしは窓の外を見た。皇居の堀の向こう、北の丸公園の木立が夕陽で黒く沈んでいる。今日の夕陽は早かった。十一月の中旬。日没は四時半過ぎ。


 検査記録は、まだ出ない。


 しかし、検査記録が出てこないという事実そのものがわたしに一つのことを教えていた。書類が動かないとき、書類を動かさない人間が、必ず書類の上流に座っている。査定員の鉄則だった。


 データが出てこない。——その事実が、わたしに教えてくれたのは、この庁舎の中にも隠す人間がいるということだ。

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