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ダンジョン保険の例外案件係に左遷された俺、【真贋鑑定】で業界の闇を全部暴く  作者: 夜摩 高嶺
第三部『シンジケート』

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第79話「不在の男」

「俺は元々、芝山の部下じゃない。庁に義理はない」


 堤が段ボール箱を机の上に置いた。十二月二十日、金曜日。三豊ビル北館十二階、損害査定部第三課。


 芝山の反転が確定してから二日。わたしたちは査察班を事実上離脱し、第三課に拠点を戻した。堤は竹橋の小会議室から私物と資料を運び出した。段ボール一箱。中身はコピーした書類と、紙コップの予備と、缶コーヒー六本。


「芝山には何と言ったんですか」


「何も言ってない。第三課の案件で現場確認が必要だと蓮田に頼ませた。蓮田は何も聞かずにハンコを押した。——あの男は便利だな」


 堤は蓮田をそう評した。正確に言えば、蓮田は便利なのではなく、必要なときに必要な判断ができる。堤もそれを分かっている。ぼやき口調で褒めないのが堤真司という人間だった。


 沢渡は一日遅れで合流した。竹橋に残っていた告発書の最終稿と関連資料を、トートバッグ二つに詰めて持ってきた。A4の紙束が鞄から覗いている。百二十枚の本文と、四百枚超の添付資料。


「沢渡さん、鞄から紙がはみ出てる」


 早乙女が窓際から声をかけた。缶のカフェオレ。朝からずっと同じ缶を持っている。


「あ、すみません……」


 沢渡が慌ててトートバッグの口を閉じた。小柄な体が書類の重さでわずかに傾いている。眼鏡がずれて、指で押し上げた。印刷インクの匂いが鞄から漂う。昨夜遅くまでプリントアウトしていたのだろう。


 蓮田がデスクから立ち上がった。壁の付箋を見ている。七枚。黒・雷・水・乃・鶴・庁・神。


「査察班からの移動理由は何にした」


「第三課の損害査定案件の現場確認です。——嘘ではありません。第三課の案件は実際に溜まっています」


「溜まってるのは俺のせいだ。——まあいい。芝山には通常業務を装えるな」


「はい。査察班の定例報告は継続します。芝山さんには行き詰まりの経過報告だけ出します」


 蓮田が頷いた。マグカップのコーヒーを一口飲んで、机に戻った。



 午後二時。第三課の事務室で、四人が机を囲んだ。蓮田、堤、沢渡、わたし。早乙女と有坂は午前中に横浜のダンジョン現場に出ている。


 議題は告発書の提出先。


「金融庁は使えない。芝山が塞いだ」


 堤が切り出した。


「金融庁には再チャレンジしません。代わりに、東京地検特捜部に直接持ち込みます」


 沢渡が手帳を開いた。付箋が何枚も貼ってある。


「告発書の構成を特捜部向けに調整しました。金融庁向けの書式から、刑事告発状の書式に変換。——中身は同じです。百五十億円規模の再保険詐欺、ダンジョン事故の偽装、資金洗浄スキーム。添付資料に電子署名付きの事故偽装マニュアル、出資者一覧、裏帳簿、証言録取書」


「特捜が受けるか」


 蓮田が聞いた。


「規模から言って、受けざるを得ません。百五十億です。ダンジョン庁の幹部が絡んでいる。——特捜が好む案件の条件を全て満たしています」


 沢渡の声には迷いがなかった。数字に裏付けられた確信。公認会計士が告発書を書くとき、感情ではなく数字が武器になる。


「問題は金融庁経由のデータ十八枚分だ。代替はどうする」


 堤が聞いた。


「再保険会社側から直接取得する手配を進めています。アークライトの再保険引受先はロイズのシンジケート。ロンドンの引受代理人に照会をかけました。回答は来週中の見込みです」


「間に合うか」


「間に合わせます」


 沢渡は手帳を閉じた。くたびれた茶色の革の表紙。角が擦り切れている。この手帳に、八か月分の数字が詰まっている。


 蓮田がマグカップを置いた。


「提出先は東京地検特捜部。提出日は——」


「十二月二十七日。金曜日。年内最終営業日です」


「最終日に出すのか」


「午前中に持ち込めば、その場で受理判断を得られる可能性があります。年始に回されるリスクを最小限にするためです」


 蓮田が腕を組んだ。壁の付箋を一瞥した。七枚の紙片が、蛍光灯の下で影を落としている。


「七日だ。あと七日で全てを揃える。——年末の東京は足が速い。官庁も企業も、二十八日には閉まり始める」



 午後五時。第三課の事務室に早乙女と有坂が戻ってきた。横浜の現場から直帰。早乙女は作業着の上にダウンジャケットを羽織っている。有坂はマフラーを二重に巻いていた。


 堤を見て、早乙女が足を止めた。


「……あんたが第三課にいるの、初めて見た」


「俺もここに座るのは初めてだ」


 堤は蓮田の隣のデスクに陣取っていた。借りた椅子が体格に合わず、窮屈そうに座っている。百七十八センチの体を、三豊ビルの事務用椅子に押し込めている。


 有坂がお茶を淹れにいった。給湯室から戻ってきたとき、トレイに六人分のカップが載っていた。堤の分も含めて。


「あの、堤さん。お茶でよかったですか。コーヒーのほうが……」


「茶でいい」


 堤は短く答えた。有坂が安堵したように小さく息を吐く。緑茶の湯気が、事務室の乾いた空気の中で立ち上った。暖房の効いた部屋に、茶葉の匂いが広がる。


 蓮田が全員を見渡した。六人。わたし、蓮田、早乙女、有坂、堤、沢渡。この事務室に六人が揃うのは初めてだった。四月から数えて、第三課の人数は二人から六人に増えた。壁の付箋は七枚に増えた。


「堤。お前に聞きたいことがある」


「何だ」


「鶴岡武彦に会う方法はあるか」


 部屋の空気が変わった。早乙女がカフェオレの缶を机に置いた。有坂がカップを持つ手を止めた。


 鶴岡武彦。六十二歳。シンジケートの中枢。書類の中にしか存在しない男。電話メモ、契約書、電子署名。名前は何十回と見た。声は数か月前の電話記録で一度だけ聞いた。顔を見たことは、一度もない。


「ある」


 堤が言った。


「鶴岡は毎月第三金曜日に、品川のホテルで朝食を取る。グランドプリンスホテル高輪。個室。護衛なし。予約は偽名だが——俺は組対時代にその情報を握っていた」


「組対時代ということは、七年以上前の情報か」


「辞めた後も、年に一度は確認してる。習慣は変わっていない。——第三金曜日。朝七時。二十一階のレストラン個室。偽名は『田村』。毎月同じだ」


 蓮田が顎を撫でた。


「次の第三金曜は」


「十二月二十日。今日だ。——もう過ぎた。次は一月十七日」


「一月は遅い。告発書を出す前に会いたい」


「なら別の手段を探す。——鶴岡は品川の他に、月二回、丸の内の弁護士事務所に顔を出す。水守の事務所だ」


 水守達也。日本で五本の指に入る企業法務弁護士。鶴岡の法的防壁。


「水守の事務所は警備が厳しい。飛び込みは無理だ。だが、年末の挨拶回りなら——」


「堤さん。わたしも行きます」


 わたしは言った。堤がわたしを見た。


「鶴岡に会って何をする」


「見ます。この目で」


 堤は二秒ほど黙った。


「分かった。——ただし、あの男は桐生とは違う。書類の外にいる人間だ。気をつけろ」


「書類の外」


「桐生は嘘と真実を混ぜた。文書に痕跡が残る人間だ。鶴岡は痕跡を残さない。会話も、書類も、全てが設計されている。——お前のスキルでも、見えないものがあるかもしれない」


 右目の奥が、微かに疼いた。残熱。十二月の夕暮れの第三課で、右目だけが熱を持っている。


 窓の外が暗くなっていた。向かいのビルの窓に、残業の蛍光灯が点いている。文京区護国寺の冬の夜。通りを歩くサラリーマンの影がビルの間を横切っていく。


 八か月。書面と音声と第三者の証言。一度も顔を見たことがない男に、ようやく会いに行く。


 書類の向こう側にいた男の顔を、見に行く。

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