第63話「黒曜」
十一月十二日、火曜日。
ダンジョン関連産業不正監視特別班の執務室。窓の外に皇居の堀が見える席で、わたしは黒曜株式会社の請求書類を一枚ずつ机に並べていた。
黒曜。探索者協会登録第四十七号。B級探索者十二名を擁する中規模クラン。本社は新宿区西新宿一丁目の雑居ビル四階。設立は二〇一九年五月。代表は元A級探索者の南條という男、と協会名簿に書いてある。雷電のような上場クランではない。業界ランキングでは中位の十五番から二十番のあたりを動いている地味な部類のクランだった。
しかし、保険金請求の額が違う。
過去二年間の累積請求は、東海生命損保宛て三千百万円、三豊ダンジョン保険宛て二千七百万円、エギス損保宛て千四百万円。合計、約七千二百万円。設立直後の二〇一九年から二〇二一年までの三年間は年間平均千八百万円。二〇二三年以降、急に四倍に跳ね上がっている。
調達した金は、どこに行ったか。
その疑問は後回しにする。先に書類を読む。それが査定員の順序だった。
わたしは一枚目を手に取った。事故報告書。二〇二四年六月、新宿第三ダンジョン十四層。B級探索者一名、足首挫傷および右肩脱臼。装備の長剣破損。保険金請求総額、五百八十万円。
目を通した。
——赤と黒が混ざっていた。
事故の場面の記述。装備の破損経緯。同行者の証言。すべてに虚偽の隙間がある。雷電の二十三件で見たのと同じ色の地図だった。意図的な隠蔽。事故偽装。読みこむまでもなく、半年前なら一時間かけて結論したものを今は三十秒で結論できる。
ただし。
雷電の書類とは、肌触りが違った。
桐生の手で作られた書類は、嘘の隙間に、必ず小さな真実を混ぜ込んであった。検査員の目が虚偽部分に向いたとき、すぐ横に「これは本当ですよ」と提示できる青の言葉が、用意されていた。盤面の作り方が巧妙だった。
黒曜の書類はその配慮がない。
虚偽の隙間がそのまま放置されている。「ここに虚偽がある」と書類自身が告白しているような粗さ。査定員が普通に読めば、半日で違和感に気づく。ところが——
二枚目。三枚目。十枚目まで読み進めた。
粗さの種類が、均一だった。
すべての書類の同じ場所に、同じ種類の隙間が開いている。事故発生時刻の記述。同行者の人数。装備破損の物理的経緯。それぞれの書類で粗い部分は決まっていた。決まっていることが、わたしには違和感だった。
まるで同じテンプレートから作られたような粗さ。
桐生は一件一件を手作りしていた。黒曜は、どこかから降りてきた共通のひな形を、機械的に埋めて使っている。
ペンを取った。机の隅のメモ用紙に「黒曜=二次工場」と書く。書いてから、文字を二重線で消した。書類は嘘をつかない。査定員のメモも、書類の一部だ。
代わりに、別の紙に、書類の番号ごとの粗さの場所だけを記録した。一号案件は事故発生時刻の記述に空白。二号案件は同行者人数の整合性に齟齬。三号案件は装備破損の物理的記述に矛盾。番号と粗さの場所を並べると、表になった。表にした瞬間、傾向がはっきりと見える。表のほうが文章より早い。沢渡が好む読み方だろう、と漠然と思った。
*
十一時。
「宇津木さん。出ますか」
堤が部屋の入口に立っていた。すでにコートを羽織っている。彼の上着は厚手の濃紺で、下に着ているシャツのボタンが、首元できつそうに見えた。
「黒曜の本社、新宿の四丁目だ。歩いて行ける距離じゃない。タクシーで二十五分」
「同行します」
わたしも立ち上がった。沢渡は財務データを掘ると言って、すでに会計士特有の電卓と紙の山を、机の片隅に築き始めていた。
*
十一時三十五分。新宿区西新宿一丁目。
雑居ビルの一階はテナント募集中の貼り紙が出ているクリーニング店の元店舗だった。二階は税理士事務所、三階は不動産仲介、四階が黒曜株式会社。エレベーターはなく、階段を上った。コンクリートの段の角が所々欠けている。
黒曜の入口は磨りガラスの引き戸だった。中から人の気配がする。電話で話す男の声。
堤が入り口の手前で立ち止まり、左右の壁を眺めた。それから廊下の床の継ぎ目を指先で軽く撫でた。
「宇津木さん」
「はい」
「この事務所、半年前に改装してるな」
「分かるんですか」
「壁紙の継ぎ目と、廊下の床のシリコンの色だ。継ぎ目が新しい。それから、隣の税理士事務所の入口の壁紙より、こっちの壁紙のほうが、わずかに白い」
「経年劣化の差ですか」
「半年から一年で出る差だ。たぶん、半年。雷電の件で行政処分が出たのが八月。それを見て、似た構造の事務所を急いで改装した。証拠処分だな」
堤が言った。確信を持っている言い方だった。組対の十五年が、廊下の壁紙ひとつから事務所の歴史を読む。【真贋鑑定】に似ているが、別の道筋で結論に届く読み方だった。
磨りガラスの戸を開けた。
黒曜の応接室は応接室と呼ぶには狭かった。革張りのソファが二脚、コーヒーテーブルが一つ。壁には登録証と、A級探索者・南條の写真が額に入れて掛けてある。額の縁が新しい木の匂いを残していた。
「お待たせしました」
代表の南條は四十代前半の小柄な男だった。色白で、よく日に焼けたタイプの探索者には見えない。事務系の男に見えた。
「特別査察班の宇津木と申します。本日は、貴社の保険金請求案件について、追加聴取を」
南條の対応は穏やかだった。彼の言葉を、わたしは色で受けた。質問への回答は、青と黄の混合。本人が誤認している部分が多い。彼自身は嘘をついていない。だが、誤認しているということは、書類を作ったのが、彼ではないことを意味していた。
書類を書いた人間が、別にいる。
四十分の聴取。事務所を出る。階段を降りながら、堤が言った。
「あの男、駒だな」
「ええ」
「いつもの形で言うと、何色だ」
「黄色。本人は嘘を言っているつもりがない」
「上にいるな、書いた奴が」
階段の最下段で、堤がコートのポケットに両手を突っ込んだ。表に出ると、新宿の風が冷たかった。十一月の空は青白い。
「宇津木さん。あんたのスキル、書類だけじゃなくて、人の話にも効くんだろう」
「効きます。ただし、本人が信じ込んでいる嘘には、無力です」
「そりゃ、組対の手前と同じだな」
堤が低く笑った。声に湿り気がなかった。
「現場で聞き込みをやってると、嘘を言ってる人間より、嘘を信じ込んでる人間のほうが、たちが悪い。前者は崩せる。後者は崩せない」
「黄色いほうが、難しいということですね」
「ああ。本人が真実だと思ってるからな」
タクシーを拾った。後部座席で、堤は窓の外を見ていた。新宿通りの渋滞。
*
午後二時。執務室に戻ると、沢渡が机の上に印刷物を広げて待っていた。
「宇津木さん、これ、見てください」
沢渡が示したのは、黒曜の再保険契約の写しだった。
「黒曜の再保険契約先が——雷電と同じです。ロンドンのアークライト・リインシュアランス」
再保険。保険会社が自社の引受リスクを、さらに別の保険会社へ転嫁する取引。国際的なリスク分散の仕組み。アークライト・リインシュアランス——名前を耳にした覚えがあった。雷電の二十三件を分析していたとき、報告書の脚注に、その社名が一度だけ出ていた。
「アークライトは、ロンドンの中堅再保険会社です。日本のクランの再保険を引き受けている邦人探索者協会員の窓口は、たしか日本側の代理店が二社しかありません」
沢渡が手元のメモに目を落とした。
「そのうち一社が、黒曜と雷電の両方を取り扱っています」
同じ再保険会社。同じパターン。同じテンプレート。——これは一つのクランの不正ではない。




