第62話「査察班」
「ダンジョン関連産業不正監視特別班、本日付着任の宇津木伊吹さんですね」
ダンジョン庁特別査察班の執務室は合同庁舎の七階にあった。北側の窓から皇居の堀が見える。広さは三豊ビル北館十二階の第三課のおよそ二倍。会議用の長机が中央に一つ、執務机が四つ、奥に班長席が一つ。書架には法令集と業界統計集。新しい合板の匂いがした。今年度設置と聞いていたが、什器の半分は新品のままだった。
「芝山班長は十時に戻ります。先に席のご案内を」
案内してくれたのは、班長補佐の女性事務官。三十代後半。色のないグレーのスーツ。声に抑揚がない。彼女の指が窓際から二番目の執務机を示した。
わたしは荷物を置いた。鞄から書類フォルダを出して、引き出しの一段目に入れる。有坂の軟膏のチューブ。文鎮代わりに使っているガラス玉。第三課で使っていた付箋の予備束。それからボールペン三本。三豊ビルから持ってきたものは、それだけだった。
*
十時。
芝山が入ってきた。グレーのスーツに、紺のネクタイ。半年前にダンジョン庁の監察官として三豊ビルに来たときと、表面上はほとんど変わらない。だが、襟元の小さなバッジが、監察官のものから特別査察班のものに変わっていた。星形の上に「監」の一文字。
「宇津木さん。ようこそ」
芝山が右手を差し出した。わたしはそれを握った。乾いた手。指の関節がわずかに大きい。何度か握手した手だった。だが今日は、これまでより一秒だけ長く彼の手はわたしの手を握っていた。
「班員を紹介します」
芝山が会議机のほうへ促した。すでに二人がそれぞれの席で資料を広げていた。
一人目。
奥の窓際。短く刈った黒髪。三十代半ば。スーツの肩幅が広い。仕立ての良さよりも、その下の体格の主張のほうが先に目に入る。痩せていない。むしろ重い。彼が立ち上がってゆっくりと頭を下げた。
「堤真司です。三十五歳。元、警視庁組織犯罪対策課」
声が低い。喉の底から出ている感じだった。
「俺はスキルなしです。書類より現場、というほうの人間でしてね」
堤が右手を差し出した。握った。骨が太い。指先が硬い。長年、現場で何かを掴んできた手だった。
二人目。
堤の向かいの席。眼鏡のフレームが細い。グレーの細身のジャケット。立ち上がっても、わたしの肩の高さに頭頂がある。小柄。前髪を耳にかけている。
「沢渡梢と申します。二十九歳。公認会計士で、金融庁の保険監督課からの出向です」
沢渡が頭を下げた。
「宇津木さんの【真贋鑑定】については、金融庁内でも何人かが関心を持っています。書類の真偽を色で識別なさるのだとか」
「正確には、書類に記述された内容の、ということになります」
「ええ、その区別がわたしも気になっていました。記述された嘘と、記述されていない嘘と、それを書いた人間の主観の問題と。お話を伺うのが楽しみです」
沢渡が言った。眼鏡の奥の目がわずかに細い。理詰めで来る。早乙女とは別種の、しかし同じくらい鋭い視線。
「金融庁では、保険会社の財務報告のレビューを担当していました。再保険の出再先、計上タイミング、損害発生率の整合性。要するに、数字の側から不正を見ます」
「書類の中身よりも、まず数字、という順序ですか」
「数字が合わないと、書類は読まなくていいことが半分はあります。残りの半分は、数字が合っていても、書類が合っていないというのを探す仕事です」
沢渡が薄く笑った。冗談として言ったわけではない。
他にも班員がいるが、今日は外出中だ、と芝山が補足した。
*
十一時。
会議机を囲んで班長会議が始まった。芝山が中央に座る。堤、沢渡、わたし。三人がそれぞれの席につく。芝山の前にはA四判の薄い資料が一冊。表紙に「ダンジョン関連産業不正監視特別班 第一次運営方針」と印刷されていた。
「先に方針を共有します。本班の任務はダンジョン関連産業における組織的不正の摘発、および類型化です」
芝山の口調は穏やかだった。
「雷電の件で明らかになったのは氷山の一角だ。同様のパターンが他のクランでも確認されています。——この班は、業界全体の不正を洗い出す」
業界全体の不正を洗い出す。
わたしは芝山の発言を、耳から、目から、姿勢から、同時に拾った。スキルが自然に走る。今のように、起動の合図を意識せずに、書類でも声でも、嘘の気配があれば反応する。半年前にはなかった習慣だった。
芝山の言葉は青だった。本当のことを言っている。班の任務として彼が定義したことは、その通りに彼が信じている。
ただし。
青の輪郭の外側に、もう一段ある。本当のことを言っている、その奥に、言っていない部分がある。それは黒ではない。色がない。空白。芝山は嘘をついていないが、地図の一部に余白を作っている。
わたしは表情を変えなかった。
「初動の案件としては」
芝山がページを繰った。
「中堅クラン『黒曜』。保険金請求の急増が三豊ダンジョン保険を含む三社で確認されています。請求パターンは雷電の二十三件と類似」
書類が回された。黒曜株式会社。探索者協会登録第四十七号。B級探索者十二名。過去二年間の保険金請求は、年間千八百万から七千二百万へ。約四倍。
堤がページに目を落としたまま、低く言った。
「雷電と同じか」
「同じです。あるいは、模倣でしょう。判定は宇津木さんに」
芝山がわたしを見た。
「最初の案件として、いかがですか」
わたしは資料を開いた。三豊ダンジョン保険からの請求書類のコピー。事故報告書の写し。供述調書。ざっと十数ページ。
目を通した。
——本物の書類だった。少なくとも、書式は本物。署名も本物。だが、書類の内容には赤と黒が混ざっていた。事故の偽装。意図的な隠蔽。雷電の二十三件で見たのと、同じ色の地図だった。
しかし、一つ違う点があった。
雷電の書類には、桐生鷹志という男の手つきがあった。巧妙だった。嘘の隙間に真実を混ぜ込み、検査員の目を泳がせる作りになっていた。
黒曜の書類は粗い。同じ色のパターンを使いながら、隙間の処理が雑だった。だが、粗さの種類が均一だった。十数件の書類のすべてで、同じ粗さの隙間が同じ場所に開いている。
まるで、同じテンプレートから作られたような粗さ。
「請けます」
わたしは言った。
「ただし、初動で必要な閲覧権限を書面でいただきたい」
「準備します」
芝山が頷いた。
*
午後一時。
昼食は合同庁舎の地下食堂で取った。堤と二人。彼は煮魚定食を、わたしは蕎麦を。沢渡は外回り、と短いメモを残して出ていた。
堤が箸を止めた。煮魚の鯖の皮を箸の先で剥がしている。テーブルの上に、出汁の匂いと、すぐ隣の席で誰かが食べているカレーのスパイスの匂いが混ざっていた。地下食堂は霞が関の役所のものより少し古く、椅子の脚が床のリノリウムに擦れる音が間断なく響いている。
「宇津木さん」
「はい」
「あんた、班長のこと、どう見てる」
単刀直入な男だった。煮魚の身を箸で割りながら、目はテーブルの木目を見ている。
「まだ、判断は保留しています」
「俺もだ」
堤がそれだけ言った。それ以上は踏み込まなかった。だが、踏み込まないことがひとつの答えだった。組対で十五年やった男の言い方だった。
堤は、班員五名のうちで、彼自身もまた、芝山に推薦されてここに来たのだろう。組対十五年の刑事が、ダンジョン関連産業を扱う班に転属してくる理屈は、表向きには筋が通っている。だが筋が通る話というのは、たいてい、別の理屈で動いている。わたしは蕎麦をすすった。汁が少し濃かった。
雷電と同じ手口が、別のクランで。——これは模倣犯ではない。




