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ダンジョン保険の例外案件係に左遷された俺、【真贋鑑定】で業界の闇を全部暴く  作者: 夜摩 高嶺
第三部『シンジケート』

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第61話「招聘」

 十一月五日、火曜日。


 三豊ビル北館十二階西端。損害査定部第三課。窓の向こうの工事シートは色を変えていた。十月の赤から、十一月の改修工程に合わせて灰色のメッシュへ。足場の影が部屋の床に落ちている。空調の吹き出し口から乾いた風が降りてきた。コーヒーの匂いが部屋の隅に滞留している。有坂が午後一番に淹れた堀口珈琲のブレンド。深煎りの香ばしさが書類の紙の匂いに混ざっていた。


 わたしは蓮田のデスクの前に立った。


「行きます」


 蓮田が手元の請求書に目を落としたまま、ボールペンの尻を顎に当てた。


「いつから決まってた」


「先週末から決まっていました。——ただし、条件があります」


 蓮田が顔を上げた。五十歳の課長の目。眼鏡のレンズの奥でわずかに焦点が変わる。


「言え」


「三豊ダンジョン保険嘱託査定官の身分は維持。給与は嘱託扱いで構いません。第三課との連絡は制限しない。書類の閲覧権限も継続。それから、人事上の所属はあくまで第三課」


「ダンジョン庁特別査察班には、出向扱いで入るのか」


「ええ。出向の覚書は芝山さんに作らせます。三豊側からは蓮田さん名義で同意書を出していただきたい。本社の人事は本社の人事として通します」


「黒川は」


「黒川部長には本社経由で通知が回るだけです。出向期限は当面六カ月。終わったら、戻ります」


「戻れたらな」


 蓮田が言った。低い声だった。冗談で言ったわけでもない。


「戻れる見込みのない出向は、本社の出向じゃありません」


「銀行のときの俺の口癖だな、それは」


 蓮田が小さく鼻を鳴らした。


「交渉はお前の得意技だ。——行ってこい」


 短い言葉だった。だが、引き出しの底に押し込めるような気配があった。蓮田の声には、半年前にこの部署にわたしを迎えたときの皮肉がもう混じっていない。



 午後三時過ぎ。


 早乙女が現場検証から戻ってきた。江戸川区の小ダンジョン。装備保険の請求案件。報告書を抱えてドアを開け、わたしと目が合った瞬間、彼女は廊下のリノリウムに片足を残したまま止まった。


「決めたんだな」


 わたしは頷いた。早乙女がドアを閉めた。報告書をデスクに置く音。書類束の角がデスクの天板に当たって乾いた音を立てた。


「いつ」


「来週月曜から、竹橋の合同庁舎に入ります」


「あたしも行く。バディだろ」


「人員枠は限定されています。班員は五名。芝山さん、わたし、もう三人。早乙女さんの席はありません」


「枠を増やせばいい」


「増やしたら、芝山さんが班を作った理由が薄まります。——彼にとって、わたしを一人で抱えることに意味がある」


 早乙女がジャケットのポケットに手を入れた。右側。カーゴパンツのほうではなく、ジャケットの内ポケット。三年前の便箋が入っているはずの場所だった。指先で何かを確かめている。たぶん、便箋の角。彼女はもうその紙を取り出さない。だがポケットに入れていることだけは続けている。


「分かった」


 早乙女が言った。短かった。


「ただ、一つ。あんたが行くなら、あたしはここを離れない」


「ここを、ですか」


「あんたが戻ってくる場所があるべきだ。あたしと有坂でここを保つ。蓮田さんはどうせ動かない」


 蓮田がデスクで鼻を鳴らした。


「動けるか、こんな歳で」


「動かなくていい」


 早乙女が蓮田のほうを向かずに言った。


「動かないでいる場所が、ここの仕事です」


 蓮田が顔を上げた。それからボールペンの尻で耳の後ろを掻いた。何も言わなかった。早乙女の言い方が、課長の手前で言うものとしては不躾なのは彼女も分かっている。それでも蓮田は咎めなかった。


 早乙女は報告書を開いた。江戸川区の小ダンジョン。装備保険、四十二万円の請求。彼女は普段の業務に戻ろうとしている。だが指先で書類の角を、二度、三度、揃え直した。


「宇津木」


 早乙女が言った。


「向こうで書類が読みにくくなったら、コピーをこっちに送れ。あたしは読む」


「送ります」


「読めない書類は、こっちのデスクで広げる。ここなら、邪魔されない」


 わたしは頷いた。書類を読む場所を二つ持つことの意味を、早乙女は警察にいた頃から知っている。



 夕方五時。


 有坂が帰る前に、わたしは彼女にも話した。彼女は給湯室の入口に立って、両手でマグカップを包んだまま何度か瞬きをした。それから小さく頷いた。


「あの、えっと……あたしは、コーヒーを淹れて待ってます」


「ええ」


「宇津木さんが、たまにでも、戻ってきてくださるなら」


「戻ります。書類が積まれていれば、必ず」


 有坂が笑った。笑った、というより、口の端を一度上に動かしただけだった。それでも有坂は、半年前に初めて第三課に来た日には、こういう動きすらできなかった。


「軟膏は、いつもの量で大丈夫ですか」


「はい」


「あの、念のため、新しいのを二本だけ机の引き出しに置いておきました。竹橋の合同庁舎にも、お一つ持っていってください。あの、向こうで、もし、何かあったら」


 有坂が言葉に詰まった。何かあったら、の続きを、彼女は最後まで言わない。


「持っていきます」


 わたしは答えた。引き出しを開けると、有坂特製の回復軟膏のチューブが二本、書類の隙間に並んでいた。蓋に黒のサインペンで製造年月日が書いてある。彼女の小さな几帳面さだった。



 六時十五分。


 窓の外の光が落ちて、向かいのビルの灰色のメッシュが夕方の空と同じ色になった。早乙女と有坂は帰った。蓮田だけが残っていた。デスクの上に、空の缶コーヒー。ボスのブラック。蓮田はマグカップではなく、缶のままで飲み終えていた。空き缶の口に指を当てて、傾けている。中で液体が一滴か二滴、跳ねる音。


「宇津木」


「はい」


「芝山を信じるな。組織を信じるな。——書類だけ信じろ」


 蓮田は缶を見ていた。わたしを見なかった。


「蓮田さん。わたしはいつも、そうしていますよ」


 蓮田が顔を上げた。一秒。それから笑った。


 珍しい笑いだった。皮肉でも、ぼやきの延長でもない。銀行員時代の蓮田が、まだ三十代の頃に上司に向けて見せていただろう、ただの笑い。歯が見えた。


「……まあな」


 蓮田が空き缶をくず入れに落とした。乾いた音。



 十一月十一日、月曜日。


 午前八時四十五分。竹橋の合同庁舎。霞が関の中央庁舎街から少し離れている。皇居の堀沿いの道を歩いてきた。皇居の樹々はすでに半分が落葉していた。歩道に椎の葉が散っていた。革靴の底でかすかに鳴る。


 合同庁舎の入口は、地下鉄竹橋駅の四番出口からおよそ三分の距離にあった。古い九階建ての建物。外壁のタイルが、一九八〇年代の役所建築の意匠そのままで、所々にひびが走っている。


 わたしは入口の自動ドアの手前で、足を止めた。


 ダンジョン庁特別査察班——正式名称、ダンジョン関連産業不正監視特別班。設置は今年度。半年前、わたしが三豊ビル北館十二階の角席で、伯母の保険金請求書類を開いたとき、この場所のことなど考えてもいなかった。査定員という仕事は、本来、その場所から動かない仕事だった。書類が動く。査定員は動かない。


 動くことになった。


 ガラスの自動ドアに、自分の輪郭が映っている。黒縁眼鏡。スーツの折り目。ネクタイは紺。胸ポケットのペンの先が、ほんの少しだけ突き出している。書類を読むための道具を、まだ全部持っている。


 顔の左半分にだけ、朝の光が当たっていた。視界の右側は、半年前のあの日からまだ、左より一拍遅れて像を結ぶことがある。今朝もそうだった。だがそれを口にする必要は、もう、ない。


 わたしは自動ドアを通り抜けた。受付に向かう。声を出して、用件を告げる。


「総務部、特別査察班に、本日付着任の宇津木伊吹です」


 受付の女性が記録簿にペンを走らせた。インクの匂い。古い建物の埃の匂い。三豊ビルの北館とは違う、官庁特有の乾いた匂いがあった。


 三豊ビル北館十二階から、竹橋の合同庁舎へ。——査定官は、場所が変わっても、書類を読む。


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