第60話「四人の係」
十月二十九日、水曜日。
三豊ビル北館十二階西端。損害査定部第三課。通称、例外案件係。窓から見えるビルの壁面が赤く染まっている。夕方の光ではない。向かいのビルの外壁改修用シートが赤い。十月からの工事で、足場が組まれ、ネットが張られた。景色が変わっただけで、部屋は変わらない。空調の吹き出し口から秋の乾いた風が降りてくる。金木犀の季節は過ぎた。窓を閉めていても、かすかに通りの排気ガスの匂いがする。十二階まで届くのは風の強い日だけだった。
デスクの横の壁。付箋が六枚。『桐』『黒』『雷』『水』『乃』『鶴』。
わたしは付箋に手を伸ばした。『桐』。一番上に貼ったもの。黄色い付箋に黒いインクで書いた一文字。四月にこの壁に貼ったときは、まだ桐生の顔を知らなかった。名前だけの男。それが半年で、S級の気配も、ペンの回し方も、四十五層での声も、最後の不格好な笑みも、全部知った。
剥がした。
付箋の粘着面が壁紙から離れる音。かすかな音。早乙女が横で見ている。有坂が手を止めている。蓮田はデスクでコーヒーを飲んでいる。振り返らない。
黄色い付箋を、デスクの引き出しにしまった。捨てはしない。桐生鷹志は敵だった。だがあの男が最後に残した忠告は、わたしの中に刺さったままだった。「使い方を間違えるな」。
壁に残った五枚。『黒』『雷』『水』『乃』『鶴』。黒川部長。雷電グループ。水守達也。乃木坂誠。鶴岡武彦。
新しい付箋を一枚出した。黄色い付箋。ペンで一文字。
『庁』。
芝山の提案。ダンジョン庁特別査察班。味方なのか罠なのか、まだ判断がついていない。判断がつかないものは、壁に貼る。書類が来たら読む。それがこの部署のやり方だ。
六枚の付箋。壁にはまだ余白がある。この余白が埋まる日が来るのか、減っていく日が来るのか。それは分からない。
早乙女がわたしの横に立った。壁を見ている。
「『桐』がなくなったね」
「ええ」
「寂しいとは言わないけど。あいつがいなくなると、壁がすっきりするな」
すっきりしたのは壁だけだ。頭の中はまだ整理がついていない。桐生の忠告。鶴岡の回答書。水守の正体。芝山の提案。四つの未決事項が、わたしのデスクの上で順番を待っている。どこから手をつけるか。書類を読む順番を決めるのは、査定員の仕事の基本だった。
*
午後三時。
有坂がコーヒーを淹れた。給湯室から戻ってくるとき、カップを四つ、トレイに載せている。蓮田のマグカップ。わたしのマグカップ。早乙女の紙コップ。有坂自身のもの。
「お砂糖は入れてないです。蓮田さんはブラックでしたよね」
「おう」
蓮田がマグカップを受け取った。一口飲む。
「うまくなったな。前よりも」
「豆を変えました。カルディの深煎りから、堀口珈琲のブレンドに」
「道理で」
早乙女が紙コップを受け取り、立ったまま飲んだ。窓際に寄りかかって、外を見ている。向かいのビルの工事シート。作業員の影が動いている。
「静かだね」
「何がだ」
「全部。桐生がいなくなって、訴訟もなくなって、金融庁の処分も終わって。机の上に爆弾がない」
蓮田がコーヒーを飲み、鼻を鳴らした。
「爆弾がないんじゃない。次の爆弾が届いてないだけだ。この部署に平和なんか来ない」
「分かってる。分かってるけど。今日ぐらいはコーヒー飲ませて」
早乙女がコーヒーを一口飲んだ。紙コップの縁を指で折り曲げている。癖だ。カフェオレのほうが好きなのに、いつも第三課ではブラックを飲む。蓮田と同じ飲み方。
有坂が自分のコーヒーを両手で包んでいる。十月の室温は低い。暖房はまだ入っていない。有坂の指先がカップの温度を吸収している。
「宇津木さん」
「はい」
「あたし、この部署に来てよかったです」
突然だった。有坂は普段こういうことを言わない。早乙女が紙コップから目を上げた。蓮田がマグカップの取っ手を指で回している。
「有坂」
「はい」
「仕事に戻れ」
蓮田の声は素っ気なかった。だがマグカップの取っ手を回す指が、一瞬、止まった。
*
午後五時過ぎ。有坂が定時で帰った。早乙女がジャケットを羽織って、ドアの前で振り返った。
「芝山の話、受けるの」
「まだ分かりません」
「あたしは、あんたが行くなら、ついていく」
わたしは何も言えなかった。早乙女は「でも」と続けた。
「ここを離れたくない気持ちもある。この部屋。この蛍光灯。蓮田さんのぼやき。有坂のコーヒー。あたしにとって、ここが初めての場所だから」
初めての場所。早乙女にとって、第三課は警察をやめた後に初めて居場所と呼べる場所になった。冤罪が晴れた後も、ここに残ることを選んだ。三年前に失った三歩を取り戻した場所。
「行くかどうかは、まだ決めていません。決めたら、最初に伝えます」
「お願い」
早乙女が出ていった。廊下のリノリウムを踏む足音が遠ざかる。階段を使う。エレベーターが嫌いなのだ。十二階から一階まで階段で降りる女。元警察官の体力。
蓮田と二人だけになった。
蛍光灯が一本、ちらついている。天井の西端の一本。四月にこの部署に来た日から、ずっとちらついている。総務に修繕申請を出したのは五月だった。優先順位が低いらしい。例外案件係の蛍光灯は、本社にとって後回しの修繕項目だった。半年経っても直っていない。わたしたちはこの明滅に慣れた。
「蓮田さん」
「何だ」
「例外案件係は、これからどうなるんでしょうか」
蓮田がマグカップを机に置いた。空になったカップの底を見つめている。十秒。目を上げた。
「お前に訊き返す。どうなると思う」
「変わりませんよ」
わたしは言った。窓の外を見ている。夕陽が沈みかけている。向かいのビルの赤いシートが、夕陽の色と混じって、どちらが工事シートでどちらが空かが分からなくなっている。
「誰も欲しがらない書類が届いて、わたしたちが読む。書類の嘘を見つけて、嘘をついた人間を追い詰める。それだけです」
蓮田が頷いた。
「だろうな」
十秒。二十秒。蛍光灯の明滅が、部屋のリズムを刻んでいる。
「宇津木」
「はい」
「お前がここに来て半年だ。半年で、雷電の副代表を引きずり降ろした。例外案件係の歴代担当者で、こんな成果を出した奴はいない。前任は三週間で辞めた。その前は一年で異動願い。この部署は墓場と呼ばれてきた」
蓮田がわたしを見た。五十歳の課長の目。銀行を辞め、損保に移り、閑職に座って、それでも辞めなかった男の目。
「だが、お前は残った。早乙女も残った。有坂も残った。俺も残った。四人が残った。それが全てだ。成果は後からついてくる」
蓮田は滅多にこういうことを言わない。言ったことに自分で気まずくなったのか、窓の外に目を逸らして黙った。空調の音だけが聞こえている。向かいのビルの工事シートが、夕陽の最後の光を吸って暗くなり始めていた。
蛍光灯が、また一度、明滅した。いつもの、あの一本。
わたしは立ち上がり、コートを取った。デスクの上を整えた。書類のファイルを棚に戻し、パソコンのモニターを消した。壁の付箋を最後にもう一度見た。六枚。
三豊ビル北館十二階、西端。損害査定部第三課。通称、例外案件係。
桐生鷹志は去った。だが、雷電の影は消えていない。鶴岡武彦。水守達也。芝山幸雄。書類の向こう側に、まだ名前のない闇がある。
わたしたちは四人だ。
そして、書類は、まだ届き続けている。




