第59話「新しい影」
十月二十日、月曜日。
雷電グループの新しい副代表が就任した。鶴岡武彦の甥。名前は鶴岡修一。三十八歳。桐生と違ってS級でもA級でもない。探索者ですらない。大手コンサルティングファームの出身。経営畑の人間を副代表に据えた。
蓮田が朝一で人事情報を持ってきた。河村経由。
「鶴岡修一。慶應の経済、マッキンゼーを経て三年前に雷電に入社。経営企画室長だった。甥だ」
「予測通りです。桐生ほどの力はない」
「ないだろうな。桐生はS級で、業界の顔で、交渉もダンジョンもこなした。こいつはコンサルだ。ダンジョンに入ったこともないだろう。経営の効率化はできても、桐生のカリスマはない」
蓮田がコーヒーを一口飲んだ。
「だが、そこが鶴岡の狙いだ。桐生は強すぎた。強い駒は自分の意思で動く。弱い駒のほうが操りやすい」
早乙女がデスクの上に足を投げ出していた。行儀が悪い。だが蓮田は何も言わない。
「桐生みたいに独断で動く心配はないってことか」
「そうだ。鶴岡は管理しやすい駒を選んだ。次のフェーズでは、雷電は派手な動きをしない。鶴岡は静かに体制を固める。コンプライアンスを強化した振りをして、実態は何も変えない」
有坂がパソコンで雷電のプレスリリースを読んでいる。
「あの。鶴岡修一さん、プレスリリースには顔写真が載ってます。桐生さんのときは副代表の写真があったのに、代表の鶴岡さんの写真は今回も載ってないです」
鶴岡武彦は甥を副代表にして顔を出させ、自分は相変わらず影に留まっている。構造は変わらない。表の顔と裏の顔。ただし今回の表の顔は、桐生ほど厚くない。隙が生まれる。蓮田が予言した通りだった。
わたしはデスクの付箋を見た。『桐』『黒』『雷』『水』『乃』『鶴』。桐生は去った。だが『桐』の付箋はまだ剥がしていない。桐生の退場が本当に終わりなのか、まだ確信が持てなかった。
*
同じ週に、もう一つ動きがあった。
氷室瑞樹が復帰した。
三豊ダンジョン保険の社内人事通知で知った。有坂が社内イントラネットで見つけて教えてくれた。「本社企画部主任・氷室瑞樹は、十月二十日付でコンプライアンス推進室に異動」。
表向きは栄転に見える。コンプライアンス推進室は昨年新設された部署で、室長は取締役直轄。だが実態は隔離だった。推進室は三豊ビル南館の三階にある。北館十二階の第三課とは棟が違う。エレベーターも別。昼休みに偶然会うこともない。
氷室に電話をかけた。個人携帯。三回のコールで出た。
「お久しぶりです」
「復帰されたんですね」
「ええ。休職は自分の判断でした。これも自分の判断です。コンプライアンス推進室は悪くない場所ですよ。本社企画部よりはましです」
青。本当に自分の判断だった。だが「ましです」の響きには疲れが混じっている。隔離されたことを、受け入れている声。
「宇津木さん。わたしはもう表に出ない方がいい。USBの件は匿名のままにしておいてください。推進室にいれば、内部通報者の特定リスクは下がります。何かあれば連絡はつきます」
「分かりました」
氷室との通話は三分で終わった。必要最小限の情報交換。以前のように長い会話はしない。お互いの立場が変わったのだ。
電話を切ったあと、早乙女が聞いた。
「氷室さん、大丈夫なの」
「大丈夫かどうかは分かりません。ただ、自分で選んでいます」
「隔離を自分で選ぶって、それ大丈夫じゃないでしょ」
早乙女の言い方は乱暴だが、的を射ている。氷室は安全な場所に自分を移した。だがそれは同時に、もう前線に出られないということでもある。USBを渡してくれた勇気が、組織の中で罰せられた。表向きは異動だが、実質は降格に近い。
わたしたちが雷電を追い詰めたことで、氷室は居場所を失った。味方を守るために敵を倒す。順序が逆転した結果は、まだ尾を引いている。
*
十月二十二日、水曜日。午後五時。
芝山幸雄が三豊ビルに来た。
第三課ではなく、一階のカフェ。蓮田はいない。わたしと芝山の二人。芝山が指定した場所だった。テーブルの上にブレンドコーヒーが二杯。砂糖もミルクも使わない。同じ飲み方。
「宇津木さん。雷電の件、お疲れ様でした」
「ありがとうございます。ただ、終わってはいません」
「分かっています」
芝山の目が少し細くなった。カフェの照明は暖色で、蛍光灯とは違う色を人の顔に落とす。
「ところで。ダンジョン庁の特別査察班というのをご存知ですか」
「いいえ」
「庁内に新設される予定の部署です。ダンジョン関連の不正を専門に調査する。保険金詐欺、探索者登録の不正、クランの組織犯罪。今までは各部署がバラバラに対応していたものを、一つの班に集約する構想です」
カフェのスピーカーからジャズが流れている。音量は小さい。テーブルに置かれたメニュー表の隅が、空調の風で揺れた。
「班長は庁内の人間が務めますが、実動メンバーには外部からも招聘する方針です。特に、ダンジョン関連の保険実務に精通していて、なおかつスキル保持者。そういう人材が必要だと」
芝山がコーヒーを一口飲んだ。口元を紙ナプキンで拭う。
「あなたを、推薦したいのですが」
【真贋鑑定】。自動的に起動する。芝山の発言に色が浮かぶ。
「あなたを推薦したい」。青。推薦の意思は本物。
だが「特別査察班」の説明全体に、薄い黒が差している。班の設立目的について、芝山は全てを語っていない。何かを隠している。班の目的が純粋な不正調査なのか、それとも別の意図があるのか。
「光栄ですが、考えさせてください」
「もちろんです。ただ、この話は、あまり長く待てません。年度内に人事を固める必要があるので」
芝山が立ち上がった。コーヒーカップを下げる。帰り際に振り返った。
「宇津木さん。あなたのスキルは、査定の現場だけで使うには惜しい。もっと広い場所で活かすべきです」
青と黒。褒めている部分は本物。だが「もっと広い場所」に込められた意味は、隠されている。
芝山が去った。カフェのドアが閉まり、十月の冷たい風が一瞬だけ入り込んだ。金木犀の匂いがした。どこかの街路樹か。季節が変わっている。
コーヒーの残りを飲んだ。冷めていた。カフェの窓から三豊ビルの北館が見える。十二階の窓に蛍光灯の光。あの部屋にいる三人のことを考えた。蓮田と早乙女と有坂。特別査察班に移れば、あの三人のいる場所を離れることになる。
第三課に戻ると、蓮田が待っていた。
「芝山と何を話した」
「ダンジョン庁の特別査察班。わたしを推薦したいと」
蓮田の目が鋭くなった。コーヒーのマグカップを机に置いた。
「あいつがお前を推薦する理由を考えろ。味方に引き込みたいのか。それとも、管理下に置きたいのか」
「分かりません。推薦の意思は本物でした。ただ、班の設立目的について、全てを話していない」
「全てを話さない男の話を鵜呑みにするな。お前はそれをやるスキルを持ってるだろう」
蓮田が席を立った。窓に歩く。十月の夕暮れ。西の空が赤く染まっている。三豊ビルの窓にビルの影が映り、ガラスの中に別の街が見えるような角度。
「芝山は、雷電の件でお前に協力した。保管庫の閲覧を通し、照会を出し、処分情報を教えた。だが、あいつが最後まで出さなかったものがある」
「何ですか」
「自分の立場だ。芝山はダンジョン庁の人間として動いた。個人の判断で動いたことは一度もない。協力するときは庁の名前で協力し、引くときは庁の論理で引いた。組織か正義かの二択が来たとき、あいつは組織を選ぶ人間だ」
蓮田の言葉は正確だった。最初に芝山のことを「信じすぎるな」と言ったのも蓮田だ。あの警告は、今も有効だった。
答えは出なかった。芝山の青と黒を、まだ整理できていない。
新しい敵が、味方の顔をして、近づいてくる。




