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ダンジョン保険の例外案件係に左遷された俺、【真贋鑑定】で業界の闇を全部暴く  作者: 夜摩 高嶺
第二部『雷電の闇』

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第58話「退場」

 桐生から連絡が来たのは、辞任の翌週だった。


 十月十四日、火曜日。午前十時。わたしの個人携帯。今度は登録済みの番号。桐生のものではない。三豊ビルの代表番号。受付からの取り次ぎだった。


「桐生鷹志様からお電話です。面会のご希望とのことですが」


 桐生は、三豊の受付を通して連絡してきた。正規のルート。これまでの個人携帯への直接連絡ではなく、会社を通した面会依頼。辞任した人間が、かつての相手の会社に面会を申し入れる。それだけで、この男の立場が変わったことが分かる。


「場所は」


「三豊ビル北館の大会議室を希望されています」


 大会議室。四月に初めて桐生と会った部屋。十二階の東側。窓から皇居の緑が見えるガラス張りの部屋。あのとき桐生はスーツの内ポケットから万年筆を出して、三回、指先で回した。


「本日の午後二時でお願いします」



 午後一時五十五分。大会議室の前。蓮田に報告してから来た。蓮田は「行ってこい。一人でいい」と言った。早乙女は同行を申し出たが、蓮田が止めた。「桐生が望んでいるのは宇津木だ。あいつの退場に立ち会うのは、相手役だけでいい」。


 会議室のドアを開けた。長机が六脚。椅子が十二脚。四月のときと同じ配置。窓からの光が床に長方形を描いている。十月の午後の光は、四月より低い角度で差し込む。


 桐生がいた。


 窓際の椅子に座っている。手ぶら。四月のときと同じ。だがスーツの仕立てが違った。着崩している。ジャケットのボタンが一つ外れている。ネクタイがない。白いシャツの襟が無造作に開いている。


 桐生が顔を上げた。目の下に薄い影がある。睡眠が足りていない人間の肌の色。百八十三センチの長身が、椅子の中で少し縮んで見えた。


「来てくださったんですね」


 声が穏やかだった。紳士のヴェールではない。疲労でもない。何かを手放した後の、静かな声。四月にこの部屋で聞いた声とは、同じ人間のものとは思えなかった。


「お話があるとのことでしたので」


 向かい側に座った。机を挟んで二メートル。四月と同じ距離。あのときは桐生の発言の上に赤と黒と青が渦を巻いていた。今、【真贋鑑定】を起動する。


「宇津木さん。ゲームは、わたしの負けです」


 青。


 初めて、桐生の敗北宣言が、嘘なく青で視えた。四十五層では「自分で降りる」が黄色だった。電話では「選択肢がない」が黒だった。だが今日の桐生は、青だけで話している。


 会議室の空調が低く唸っている。窓の外でビル風が鳴った。


「一つだけ、お話しさせてください。あなたに話しておくべきことがある」


「聞きます」


 桐生が背もたれに体を預けた。天井を見上げる。蛍光灯の白い光が、ネクタイのない首元を照らしている。


「雷電を作ったのは、わたしの父です。桐生一志。十二年前。わたしが二十三のときだった。父は元A級探索者で、引退後にダンジョン関連の事業を始めた。保険の仕組みを最初に考えたのも父です。再保険取引のスキームを設計したのも」


 青。全て本当だ。


「父が亡くなったのは八年前です。心臓発作。五十七歳だった。雷電の経営は鶴岡が継いだ。鶴岡は父の大学時代の友人で、設立当初から資金面で支えていた。父が死んで、鶴岡が代表になった。わたしはS級に昇格したばかりで、経営は何も分からなかった」


 青。桐生は事実を語っている。感情を排した声で、過去を並べている。だが声の奥に何かが揺れていた。喉仏が一度、動いた。


「鶴岡は、わたしの育ての親のようなものです。父が亡くなったとき、わたしは二十七でした。S級になったばかりで、ダンジョンの中でしか生きたことがなかった。経営の知識はゼロだった。鶴岡が全て教えてくれた。資金の回し方。人の使い方。書類の作り方」


 桐生が窓を見た。皇居の方角。木々の緑が午後の光を受けている。


「副代表になったのも鶴岡の推薦です。再保険のスキームは父が設計しました。そのスキームを保険金詐欺に転用したのはわたしです。だが仕組みの土台を温存し、使える状態に維持していたのは鶴岡です」


 青と黒が混じった。「仕組みを温存したのは鶴岡」には青。事実。だが「始めたのはわたし」には微かな黒が重なる。完全な真実ではない。桐生が始めたのではなく、鶴岡に促されて続けたのかもしれない。だが桐生は自分の責任として語ることを選んでいる。


「桐生さん。その話を、金融庁にすることはできますか」


「いいえ」


 青。迷いなく青。金融庁には話さない。それは確定事項だった。


「鶴岡を売ることは、父を売ることと同じです。父が作った会社を、父の友人が守っている。その構造を壊すことは、わたしにはできない」


 青。だがこの青は、正しいことを言っている色ではなかった。信じていることを言っている色だ。桐生は、鶴岡を守ることが父への忠義だと、本気で信じている。それが正しいかどうかは別の問題として。


 桐生が椅子から立ち上がった。窓に歩く。皇居の緑を見ている。十月の木々はまだ緑だが、端のほうから色が変わり始めている。


「宇津木さん。一つだけ」


 振り返った。


「あなたのスキル。あの四十五層で使ったもの。口頭の約束を契約に変える力。あれは、わたしが知る限り、最も危険な能力です」


 四十五層と同じ言葉。だが声の温度が違う。あのときは驚きと警戒だった。今は忠告だった。


「使い方を間違えないでください。あの力で人の言葉を縛れば、あなたは正義の側にいても、やっていることは鶴岡と同じになる。人を書類で縛り、書類で動かし、書類で消す。それは鶴岡がやってきたことです」


 青。全文青。桐生はこの忠告を本気で発している。そして「鶴岡がやってきたこと」という表現に、赤も黒もなかった。桐生は鶴岡の手法を正確に理解しているのだ。理解した上で、最後まで従った。


 わたしは立ち上がった。桐生に向かい合う。窓からの光が二人の間に差し込んでいる。


「忠告として受け取ります」


 桐生が微笑んだ。四月の完璧な笑みではない。四十五層の薄い笑みでもない。もっと不格好な、口の端だけが持ち上がる笑い方。三十五歳の男が、何かを手放した後に浮かべる、そういう表情だった。


「では」


 桐生がドアに向かって歩いた。四月のときはわたしが先にこの部屋を出た。今日は桐生が先に出る。ドアの前で一度だけ足を止めた。振り返らなかった。


「宇津木さん。——あなたの書類は、正しかった」


 ドアが閉まった。閉まる瞬間、廊下の蛍光灯の光が一瞬だけ差し込んで消えた。


 桐生の足音が廊下を遠ざかっていく。革靴がリノリウムを叩く音。四月に聞いたのと同じ靴だろう。だが歩く速度が違った。四月は余裕のある歩幅だった。今日は普通の速度。S級探索者の歩き方ではない。ビルの廊下を帰っていく、普通の男の歩き方だった。エレベーターが到着する音。ドアが開き、閉じる。それで足音が消えた。


 会議室に一人残された。空調の音だけが聞こえる。窓からの光が、桐生が座っていた椅子の背を照らしている。机の上に何も残っていない。四月のときは万年筆があった。今日は何もない。手ぶらで来て、手ぶらで去った。


 桐生一志と鶴岡武彦。父の友人が息子を育て、息子を使い、息子を切り捨てた。桐生はそれを知っていて、最後まで鶴岡を売らなかった。恩義。忠義。あるいは、もっと単純な感情。父が信頼した人間を、自分も信じたいという。


 桐生鷹志は去った。だが、彼が最後に見せた顔は、敵の顔ではなかった。

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