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ダンジョン保険の例外案件係に左遷された俺、【真贋鑑定】で業界の闇を全部暴く  作者: 夜摩 高嶺
第二部『雷電の闇』

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第56話「脚本」

 九月二十五日、木曜日。回答期限当日。


 午後二時に、金融庁の保険監督課から蓮田に連絡があった。雷電グループからの回答書が期限内に提出された。写しを開示する準備ができたとのこと。蓮田は三十分後に電話を切り、わたしに言った。


「回答書、来た。閲覧は来週月曜。だが概要は電話で聞いた」


「鶴岡の署名は」


「ある。代表取締役鶴岡武彦の直筆署名。本物だ。金融庁が筆跡照合もやっている」


 椅子の背もたれに体重を預けた。右目の視界の端が、わずかにちらつく。Tier3の残滓ではない。ただの疲労。一週間、ほとんど眠れていなかった。


 鶴岡が署名した。初めて。十二年間、書類に名前を残さなかった男が、紙の上に自分の名前を書いた。


「内容は」


 蓮田の顔が硬い。


「全責任を桐生の独断的判断に帰結させている。鶴岡は関知せず。再保険取引の決裁は、副代表に一任されていた。外部監査の除外五件は、副代表の指示で資料が未提出だった。すべて桐生の名前で処理されている」


 予想通りだった。桐生が金曜の夜に電話で言った通り。「わたしが全ての責任を負い、雷電グループ本体は存続する。そういう脚本です」。あの青い発言が、一週間で現実になった。


 早乙女が腕を組んだ。椅子の背にもたれず、背筋を伸ばしたまま。


「回答書の中身を見ないと分からない。概要だけじゃ判断できないよ」


「閲覧は月曜だ。金融庁に行く。宇津木、お前も来い」


「はい」


 蓮田がマグカップを持ち上げ、コーヒーが残っていないことに気づき、下ろした。有坂がすぐに席を立った。給湯室に向かう背中を蓮田が見送り、何も言わなかった。



 月曜日。九月二十九日。午後一時。蓮田と二人で再び霞が関に出向いた。同じ合同庁舎第七号館。同じ十一階。受付は前回と同じ早瀬が対応した。応接室ではなく閲覧室。グレーの壁に囲まれた六畳ほどの部屋。机の上にクリアファイルが一冊。


 A4三十四ページ。コピーの持ち帰りは不可。閲覧とメモのみ許可。蓮田がポケットからボールペンを出し、わたしはメモ帳を開いた。全ページをメモする時間はない。重要箇所を押さえる。


 閲覧時間は一時間。一時間で三十四ページ。一ページあたり約百秒。蓮田が法的構成を読み、わたしが事実関係の整合性を確認する。無駄口は一切なかった。


 閲覧を終えて合同庁舎を出たのは午後二時十五分。日比谷通りの歩道で蓮田が言った。


「あの回答書、書いたのは弁護士だ。鶴岡本人じゃない。文体が違う。法律家の文章だ」


「水守でしょうか」


「十中八九」


 第三課に戻り、デスクに広げた。メモを元に、回答書の内容を再構成する。


 午後三時十二分。早乙女と有坂が横に立っている。蓮田がデスクの向かい側に座っている。四人で一冊の書類を見ている。


 【真贋鑑定】を起動した。Tier1。回答書の一ページ目から読む。


 表紙。「雷電グループ株式会社 保険業法第百二十八条に基づく報告書」。署名欄。「代表取締役 鶴岡武彦」。黒い万年筆のインク。崩し字。六十二歳の男の筆跡。


 署名の上に、色が浮かんだ。黒。


 鶴岡武彦の署名は黒だった。意図的な隠蔽の色。この男は自分の名前を書きながら、書くこと自体を隠蔽行為として設計している。署名は本物だ。だがその署名が載った書類の中身を、鶴岡は隠蔽の道具として使っている。


 二ページ目。質問第一項への回答。「再保険取引の決裁フローについて」。


 読み進めた。三ページ。五ページ。十ページ。


 回答書は巧妙だった。事実は認めている。再保険取引に問題があったこと。五件が外部監査から除外されたこと。保険金請求の内部審査に不備があったこと。事実の認定は全て青。嘘はない。


 だが、全ての問題の原因が「副代表・桐生鷹志の独断的判断」に帰結されている。


 「独断的判断」。この四文字に赤が重なった。虚偽。独断ではなかった。桐生は鶴岡の指示で動いていた。だが回答書の文面は「独断」と断じている。


 十五ページ。外部監査からの五件除外について。「副代表が監査法人に対し、資料の準備が間に合わない旨を伝達した結果、監査対象から外された。代表取締役は事後に報告を受けたが、監査法人への直接指示は行っていない」。


 赤。全体が赤。鶴岡は監査法人に直接電話している。電話受付メモが証拠として存在する。だが、回答書はそれを否定している。


 二十ページ。委任範囲について。「副代表への委任は業務全般に及ぶが、違法行為を含む判断を委任した事実はない。委任状の範囲内で副代表が行った違法な判断は、副代表個人の責任に帰する」。


 法的にはこの論理は成立する。全権委任は合法な範囲の行為を委任するものであって、違法行為まで委任したことにはならない。鶴岡は「疑わしきは罰せず」の原則の背後に隠れている。


 三十四ページ目。末尾。


 「以上の通り報告いたします。なお、雷電グループとしては、本件の原因となった副代表の判断について、社内処分を含む適切な措置を速やかに講じる所存です」。


 この一文が黒。全体が黒。「適切な措置」とは桐生の排除であり、鶴岡はそれを「措置」と呼んでいる。部品を外す。本体は存続する。



 回答書を読み終えた。


 早乙女が口を開いた。静かな声だったが、怒りが底に沈んでいた。


「あのジジイ、桐生を生贄にする気か」


「そうだ」


 蓮田が応えた。椅子の背にもたれている。天井を見ている。


「これが大手クランの撤退戦だ。部品を一つ外して本体を守る。銀行もやる。不祥事が出たら、当事者を処分して『管理体制を強化しました』で幕を引く。組織は残る。トップは責任を取らない」


 有坂がノートにメモを取っている。ペンの先が震えている。


「あの。鶴岡さんの回答書って、嘘なんですよね。宇津木さんには赤が見えてる。それを金融庁に伝えれば」


「伝えます。ただし、わたしのスキルによる色判定は法的な証拠能力を持ちません。裁判所が認める証拠は、書面と証言と物証です。色は傍証にはなるが、直接証拠にはならない」


 有坂のペンが止まった。


「じゃあ、どうすれば」


「桐生の口から、鶴岡の指示だったという証言が必要です」


 だが、桐生はそれを言わない。金曜の夜の電話で、桐生は「選択肢がない」と言った。黒。隠蔽。


 蓮田が椅子を起こした。両肘をデスクに置く。


「回答書を書いたのは鶴岡本人じゃない。弁護士だ。文体が法律家のものだった。十中八九、水守達也が起案している」


 早乙女の目が細くなった。


「水守があの回答書を書いたなら、水守は鶴岡の代筆者だ。桐生の弁護士じゃない。鶴岡の」


「そうだ。水守は最初から鶴岡側の人間だった可能性がある。桐生の弁護は、鶴岡の防火壁を作るためだったんだ」


 パズルのピースが嵌まる感覚。水守達也は訴訟取下げのときも、告発状のときも、常に桐生の名前で動いていた。だがその背後にいたのは鶴岡。水守にとって桐生は依頼者ではなく、担当案件にすぎなかったのかもしれない。


 窓の外が暗くなり始めている。九月の日没は早い。ビルの谷間に、最後の陽光が差し込んでいた。


 鶴岡を追い詰めるには、桐生の証言が必要だ。だが桐生は口を閉ざしている。鶴岡を守ることで、桐生は自分の「最後の価値」を維持しようとしている。あるいは、鶴岡に対する感情が忠義でも恐怖でもない、もっと複雑な何かである可能性。


 蛍光灯が一度、明滅した。いつもの一本。


 桐生は駒だ。だが、駒であることを選んだのは、桐生自身だ。

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