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ダンジョン保険の例外案件係に左遷された俺、【真贋鑑定】で業界の闇を全部暴く  作者: 夜摩 高嶺
第二部『雷電の闇』

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第55話「報告徴求」

 回答期限は一週間だった。


 金融庁からの報告徴求命令の文面を、芝山経由で入手した。九月十九日、金曜日。河村の第二報が公開された日の午前。芝山は命令文の写しをPDFで送ってきただけで、電話には出なかった。三回かけて三回とも留守番電話。折り返しもない。


 三豊ビル北館十二階。第三課のデスクに命令文を広げた。A4二枚。保険業法第百二十八条。回答期限は九月二十五日、木曜日。回答義務者は「雷電グループ株式会社 代表取締役 鶴岡武彦」。質問事項は七項目。再保険取引の決裁フロー、過去五年間の保険金請求の内部審査手順、副代表への委任範囲、外部監査の実施経緯と除外案件の理由。


 七項目のすべてが、鶴岡個人の関与を問う構成になっている。金融庁の担当者は分かっている。桐生の代理権限で逃がさないための設計だ。


 蓮田が命令文の写しを読み、コーヒーのマグカップに手を伸ばした。


「七項目か。回答書は最低でも二十ページにはなる。弁護士が書くとしても、署名は鶴岡本人じゃなきゃ効力がない」


「雷電の顧問弁護士団が回答を起案するでしょう。問題は、鶴岡がどこまで内容をコントロールするか」


 蓮田が手を止めた。指先がデスクの端に触れたまま。


「お前の読みは」


「桐生に全責任を押しつける回答書が出てきます。鶴岡は自分の関与を否定し、桐生の独断的判断として処理する。法的に最も安全な撤退戦。部品を外して本体を守る。蓮田さんが銀行時代に見た構図と同じです」


 蓮田の指がマグカップの取っ手を離れた。椅子の背にもたれる。天井を見上げた。


「だろうな」



 河村の記事は午前八時に公開された。


 「雷電グループ外部監査の実態——除外された五件と代表の『不在』」。探索ジャーナルのサイトで、閲覧数が昼までに四万を超えた。記事は外部監査から五件が除外された事実と、鶴岡武彦が十二年間公の場に姿を見せていない事実を並べている。匿名情報源からの内部メモ引用。写真はない。鶴岡の顔写真が存在しないことそのものが、ニュースになっていた。


 早乙女がスマートフォンで記事を読みながら言った。


「河村さん、度胸あるね。鶴岡の名前を見出しに入れてる」


「署名記事だからな」


 蓮田が応えた。金融庁の報告徴求命令と記事が同日に出る。報道と行政の二方面から雷電に圧力がかかった。河村は命令の発出を事前に知っていたわけではないが、記事の公開日を金曜に設定した判断は正しかった。週末を挟むことで雷電側の初動対応を遅らせる。報道対応と法的対応を同時に強いられる。


 有坂がデスクの横で記事を読んでいる。スマートフォンの画面を指でスクロールし、途中で指が止まった。


「あの。記事の最後に『本件について雷電グループにコメントを求めたが、期限までに回答はなかった』って書いてあります。コメント要請もしてたんですね」


「河村はプロだ。取材のルールは全部踏んでる。だから記事が強い」


 蓮田がコーヒーを一口飲んだ。有坂が淹れたもの。豆はいつものカルディの深煎り。


 記事の反応は金曜の午後にかけて広がった。ダンジョン業界のニュースサイトが次々と転載し、SNS上で「鶴岡武彦」の名前がトレンドに入った。名前だけ。顔も声も経歴も、検索しても何も出てこない男の名前が、数字だけで存在を証明されていた。


 早乙女がスマートフォンを伏せた。


「鶴岡の側近が動くよ。水守が来る」


「来るでしょうね。報告徴求命令への回答書を水守が起案する可能性は高い。法律文書は法律家が書く」


「あの弁護士が鶴岡の代筆者ってことか」


 早乙女の指摘はその通りだった。水守達也は桐生の弁護士として登場したが、本来の依頼者は鶴岡である可能性が高い。桐生の法的防御は、鶴岡にとっての防火壁にすぎない。



 桐生から連絡が来たのは、その日の夜だった。


 午後九時十七分。わたしの個人携帯。登録していない番号。出ると、声が違った。四月の大会議室で聞いた紳士の声でも、四十五層で聞いた低い声でもなかった。もっと乾いている。喉の奥が詰まったような響き。


「宇津木さん」


「桐生さんですか」


「あなたは、わたしを潰すつもりですか」


 蛍光灯の下ではなかった。自宅のアパートで電話を取っている。等々力の六畳一間。台所の換気扇が回り、夕食の味噌汁の匂いが、部屋に残っていた。窓の外で虫が鳴いている。九月の夜。


「いいえ。書類の真偽を明らかにするだけです」


「同じことですよ」


 桐生の声に、三十五歳の男の疲労が滲んでいる。紳士のヴェールが完全に剥がれた声。S級探索者でもなく、雷電副代表でもなく、追い詰められた一人の人間の声だった。


 わたしは台所の椅子に座った。味噌汁の鍋がコンロの上で冷めかけている。


「桐生さん。報告徴求命令の回答期限は一週間です。鶴岡代表が回答書に署名する。それだけの話です」


「それだけの話じゃない」


 声が低くなった。


「鶴岡は、わたしを切り捨てるでしょう」


 電話越しでも、色は浮かぶ。Tier1の範囲。発言の真偽を判定する程度なら、対面でなくても機能する。音声に色がつく。


 「鶴岡は、わたしを切り捨てるでしょう」。青。


 桐生は本当にそう考えている。予測ではなく確信。鶴岡の脚本がどう書かれているか、桐生は知っている。


「わたしが全ての責任を負い、雷電グループ本体は存続する。そういう脚本です。二年前から、いや、もっと前から用意されていた。わたしが使い終わったときの退場の手順」


 青。全て本当だ。


 この男は、自分が消耗品であることを知っている。知っていて、五年間、副代表を続けてきた。


「桐生さん。あなたは、鶴岡の脚本に従うのですか」


 沈黙が三秒。電話の向こうで、椅子がきしんだ。桐生も座っている。


「選択肢が、ないんですよ」


 黒。


 選択肢がないのではない。選択肢を隠蔽している。桐生の中に選択肢は存在する。だがそれを口にすることを、この男は自分に禁じている。鶴岡の指示だったと証言すれば、桐生一人に責任が集中する構図は崩れる。それを言わない。言えないのではなく、言わない。


「選択肢はあります」


「ないんです」


 声が硬い。四十五層のときよりも硬い。あのときの桐生にはまだ余裕があった。今はない。余裕のない桐生は、意外なほど普通の声をしていた。


「もういいです。宇津木さん。あなたにはあなたの仕事がある。わたしには、わたしの終わり方がある」


 電話が切れた。


 わたしは携帯をテーブルに置いた。味噌汁は完全に冷めている。窓の外の虫の声が、さっきより近くなった気がする。換気扇の羽が一周するごとに、かすかにカタカタと鳴る。


 桐生は、初めて、弱さを見せた。


 それが本物か演技か。青と黒が入り混じった発言の中で、一つだけ確かなことがある。「鶴岡はわたしを切り捨てる」が青だったこと。桐生はそれを確信として持っている。


 だが「選択肢がない」の黒は深かった。あの黒の奥に何があるのか。恐怖なのか、忠義なのか、それとも全く別の感情なのか。


 わたしは冷めた味噌汁を温め直す気にもならず、鍋に蓋をした。冷蔵庫のモーター音が、台所に響いている。早乙女に電話しようかと思い、やめた。桐生との通話の内容を伝えるのは明日でいい。今夜のうちに整理すべきことがある。


 桐生の「終わり方」という言葉。あれは辞任を指している。自分から降りる。四十五層でも同じことを言った。あのときは黄色だった。今夜は確認できなかった。電話では色の判定精度が落ちる。対面のときほど鮮明に見えない。


 わたしのスキルでさえ、完全には判別できなかった。

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