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ダンジョン保険の例外案件係に左遷された俺、【真贋鑑定】で業界の闇を全部暴く  作者: 夜摩 高嶺
第二部『雷電の闇』

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第54話「提出」

 九月十七日、水曜日。午前九時四十二分。


 霞が関の中央合同庁舎第七号館に着いたとき、蓮田は缶コーヒーも買わなかった。地下鉄の霞ケ関駅から地上に出て、九月の朝の光に目を細めた。合同庁舎の正面は灰色のコンクリートで、窓の配列が均一すぎて遠近感が狂う。

 正面玄関の受付で入館証を受け取り、エレベーターに乗る。十一階。金融庁保険監督課。廊下のリノリウムは三豊ビルより一段暗い色で、空調の乾いた風が首筋を撫でた。どこかでコピー機が動く音がする。印刷インクの匂い。官庁の廊下は、どこも似た匂いがした。


 蓮田がファイルを抱えている。A4四十二ページ。添付資料百七ページ。製本テープで綴じた二センチの厚さ。表紙には昨夜、有坂が打ち込んだタイトル。


 『雷電グループ関連保険金詐欺に関する調査報告書——三豊ダンジョン保険株式会社 損害査定部第三課 例外案件係』。


 受付の担当者は三十代半ばの男性だった。名刺を交換する。保険監督課監理第二係長、早瀬良太。細い目で報告書の表紙を見た。タイトルを最後まで読み、一度だけ目を上げた。


「お待ちください」


 十五分後に応接室に通された。窓のないグレーの部屋。蛍光灯が二本、天井から白い光を落としている。パイプ椅子と長机。官庁の応接室とは名ばかりで、要するに面談室だった。壁のホワイトボードに前の面談の消し残りがある。


 早瀬が上司を連れてきた。保険監督課課長補佐、黒崎幹雄。五十代前半。白髪交じりの短髪。表情の読めない目。霞が関の中間管理職が持つ特有の温度のなさ。


「三豊ダンジョン保険の蓮田です。損害査定部第三課課長を務めております」


「同じく第三課、宇津木と申します」


 蓮田がファイルを差し出した。黒崎は受け取り、表紙をめくった。目次に視線が走る。十秒。二十秒。ページを戻し、タイトルを見直した。


「報告書の提出ということでよろしいですか」


「公益通報です。保険業法第百二十八条および公益通報者保護法第二条に基づき、雷電グループの組織的保険金詐欺について報告いたします」


 蓮田の声は平坦だった。銀行で二十年、損保で十年。監督官庁への報告は初めてではない。だが自分の会社の案件を外に持ち出すのは初めてだろう。声に揺れはなかった。机の下で、蓮田の右手の人差し指がズボンの膝を一度だけ叩いた。癖だ。覚悟を決めた日にだけ出る。


 黒崎が報告書を机の上に置いた。手を離さない。表紙に両手を添えたまま、蓮田を見た。


「雷電グループ、ですか」


「二十三件。五年間。総額四億七千万円の保険金詐欺です。添付資料に証拠データの一覧があります」


 黒崎の指が、表紙の端を一度だけ叩いた。それだけの反応。早瀬がメモを取っている。


「拝読します。追って連絡いたします」


 それだけだった。面談室に入ってから十二分。四十二ページと百七ページの添付資料が、初めて第三者の手に渡った。拍子抜けするほど静かだった。書類を渡す。受け取られる。官庁の廊下に戻ると、コピー機の音がまだ続いていた。わたしたちが来たことに気づいた人間は、この階に何人いただろう。



 ビルを出た。九月の陽射しが正面から差した。日比谷公園の緑が遠くに見える。空気が乾いている。秋の手前の、まだ湿度を残した暑さ。


 蓮田が自動販売機の前で立ち止まった。ポケットから小銭を出している。百三十円。BOSSの青い缶を押した。プルタブを開ける音が、交差点の車の音に混じった。


 わたしには渡さなかった。自分で一口飲んだ。


「うまくもないが」


 缶を見つめている。十秒。


「今日は飲める」


 わたしは何も言わなかった。蓮田の横に立って、日比谷通りを見ていた。タクシーが一台、合同庁舎の前を通り過ぎた。ビルの影が歩道を横切っている。遠くでサイレンが鳴り、止んだ。

 蓮田が缶コーヒーを飲み終わるまで、三分ほどそこにいた。空いた缶をゴミ箱に入れる音。アルミが底を叩く、軽い音。蓮田が歩き出す。振り返らなかった。


***


 同日の午後、河村に電話をかけた。


「提出しました」


「分かりました。こちらも動きます。第二報は明日の夕方に入稿。金曜朝に公開です」


 河村の声は硬かった。記事の中身を聞くつもりはない。彼女は自分の仕事をしている。わたしたちの報告書が金融庁に入ったことを、報道の裏付けに使う。記事のタイトルは教えてくれた。「雷電グループ外部監査の実態——除外された五件と代表の『不在』」。


 署名記事。河村葵の名前が出る。わたしたちは報告書で名前を出した。蓮田が署名した。河村も署名する。名前を差し出すという行為がどういう意味を持つか、この業界にいれば嫌でも分かる。匿名の告発は握り潰せる。署名つきは、そうはいかない。



 金融庁の動きは速かった。


 九月十八日、木曜日。報告書提出から二十七時間後。朝十時過ぎに蓮田の携帯が鳴った。第三課のデスクで蓮田が電話を取り、メモを走らせ、三分で切った。


 顔を上げた蓮田の目が、わたしを捉えた。


「金融庁が報告徴求命令を出した。雷電グループに対して、保険業法第百二十八条に基づく業務報告の提出を求める命令」


 早乙女が椅子から身を起こした。有坂がペンを止めた。


「宛先は」


 蓮田がメモを読んだ。


「雷電グループ代表取締役、鶴岡武彦」


 わたしの背筋を、冷たい電流が一本、走った。桐生ではない。副代表ではない。代表取締役。鶴岡武彦。書類に名前を残さない男に対して、国の監督官庁が、名指しで回答を要求した。


「桐生の代理権限は使えるんですか」


 早乙女の質問。的確だった。


「報告徴求命令の回答義務者は代表取締役個人だ。全権委任状があっても、命令の名宛人が鶴岡本人なら、鶴岡の署名がなければ法的効力を持たない」


 蓮田がメモをデスクに置いた。コーヒーのマグカップに手を伸ばし、一口飲んだ。有坂が今朝淹れたもの。


「つまり、鶴岡は書類に署名しなければならない」


「そうだ。初めてだ。あの男が、自分の名前を紙の上に書かなければならない状況が生まれた」


 蓮田の目が光っている。銀行員だった頃の目。規制当局の動きの速さを読む目。

 報告書提出の翌日。二十七時間。金融庁が雷電の件を優先処理した。河村の記事が金曜に出る。その前に命令を出した。記事に先手を打った形。報道に追い越される前に手を打つ。霞が関の速度としては異例だった。


 有坂が小さな声で言った。


「鶴岡さんって、お顔も声も知らない人、ですよね。その人が、書類に名前を書く」


「書かなければ、命令違反で刑事罰の対象になります。保険業法第三百十五条。一年以下の懲役または三百万円以下の罰金」


 早乙女が腕を組み直した。口元が引き締まっている。


「鶴岡が回答書を書くなら、あたしたちはその中身を読める。初めて、あの男の言葉が書類の上に乗る」


「そうです」


 わたしはデスクの横の壁を見た。付箋が六枚。『桐』『黒』『雷』『水』『乃』『鶴』。一番下の『鶴』。黄色い付箋に黒いインクで書いた二文字。


 この男の書類を、わたしはまだ一枚も読んでいない。鶴岡武彦が自分の手で書き、自分の名前で署名した書類を、【真贋鑑定】にかける機会は、今まで一度もなかった。声は一度だけ聞いた。電話受付メモに残った音声記録。あの黒一色の声。


 その男が、書面で回答する。回答義務がある以上、書かざるを得ない。書けば色がつく。青か、赤か、黒か。


 それが変わる。


 鶴岡の筆が、初めて、紙の上に降りる。

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