第53話「反撃の書類」
報告書の作成を始めたのは、九月九日の火曜日だった。
告発状が届いた翌日。眼鏡のブリッジを押し上げ、デスクの書類に目を落とす。二度目の代価から十五日。左右の焦点が合うまでに一拍かかる。細かい数字を追うとき、無意識に片目を閉じる癖がついた。
デスクの上に全ての証拠を並べた。
USBデータ。氷室から提供された雷電グループの再保険引受記録五年分。二十三件。総額四億七千万円。エクセルファイル七本とPDFスキャン四十三枚。
二十三件の報告書。わたしが【真贋鑑定】で分析した結果。パターンA(罠悪用・十二件)、パターンB(装備偽装・八件)、パターンC(死亡偽装・三件)。各案件の色判定一覧。赤と黒の分布図を、A3用紙に印刷して壁に貼った。
乃木坂の証言記録。警視庁監察に提出した証言調書の写し。証拠改竄の自白。指示者の名前は伏せたまま。
外部監査の除外五件。監査法人・青葉リスクコンサルティングの中間報告書。除外された五件のリストと、「資料不備」の理由付けが黄色だった判定記録。
桐生の四十五層での発言。Tier3による契約条項化の記録。「再保険詐欺は事実。わたしが企画し、実行した」。録音データのタイムスタンプと、契約条項の文言。
鶴岡の音声記録。監査法人への電話の受付メモ。黒一色の色判定記録。通話日時と内容の要約。
桐生の全権委任状。青(本物)。桐生の行為が、鶴岡の行為と法的に等価であることの裏付け。
これらを一つの報告書にまとめる。散らばった証拠を一本の線で結ぶ。嘘のない線。青い線。
*
報告書の提出先について蓮田と話し合ったのは、その日の昼だった。
第三課。有坂がデスクの横に立って、ノートにメモを取っている。早乙女は椅子に座り、腕を組んで聞いている。
「提出先は三豊の取締役会ではありません」
蓮田がコーヒーを置いた。湯気が消えかけている。
「理由を」
「黒川部長を経由したら止まります。取締役会に上がっても、雷電との関係を考えて握り潰される可能性が高い。三豊の年間保険料の六パーセントが雷電関連です。十四億円。その売上を失うリスクを、取締役会が許容するとは思えない」
「三豊は俺たちの会社だ。社内で解決するのが筋じゃないのか」
「筋です。ただし、その筋が通る保証がない。内部で処理して、処理されなかった場合、証拠が消される。USBのデータは複製してありますが、乃木坂の証言記録や監査法人の中間報告書は原本が一部しかない。社内で止まったら、そこで詰む」
蓮田は黙って聞いていた。マグカップの取っ手を指先で回している。十秒。
「提出先はどこだ」
「金融庁の保険監督課です」
蓮田の指が止まった。マグカップが回転を止める。
「外に出すか」
「内部で止められるなら、外に出す。金融庁の保険監督課に直接持ち込めば、監督官庁として調査義務が発生します。金融庁が動けば、雷電に対する報告徴求命令が出る。取締役会が握り潰す余地がなくなる」
「三豊の社員が社内情報を外部に持ち出す形になる。コンプライアンス違反だ。お前の処分理由になる」
「公益通報者保護法の適用を受けます。佐伯さんに確認しました。行政機関への通報であれば、通報対象事実が犯罪行為等に該当する場合、通報者は保護される。保険金詐欺は刑法二百四十六条の詐欺罪です」
蓮田が椅子から立ち上がった。窓に歩く。ブラインドの隙間から外を見る。九月の空。積乱雲の季節は過ぎて、巻雲が、高い位置に流れている。空気が乾いてきた。秋の手前。
「俺は銀行にいたとき、内部で処理しようとした。結果、処理されなかった。告発した部下が飛ばされた。社外に出す決断ができなかった。あのとき外に出していれば、あいつは飛ばされなかった」
蓮田が振り返った。
「分かった。金融庁に出す。筋は俺が通す。損害査定部第三課の名前で出す。課長名として俺の署名を入れろ」
「蓮田さん。署名すれば、蓮田さんも処分対象になり得ます」
「署名しなければ、部下に全責任を負わせる上司だ。そんな課長の下で誰が働く。有坂、お前はどう思う」
有坂がノートから顔を上げた。
「あの。署名、してほしいです」
「早乙女」
「当然」
*
報告書の作成は一週間かかった。
佐伯がリーガルチェックを担当した。四谷三丁目の事務所に草稿を持ち込み、法的な瑕疵がないかを一ページずつ確認した。佐伯のペンが赤い修正を入れるたびに、わたしは第三課に戻って書き直した。三回の往復。修正箇所は合計十七箇所。法律用語の正確性、引用条文の整合性、証拠番号の連番。佐伯は一箇所も見逃さなかった。
河村が報道準備を進めた。探索ジャーナルの第三報。金融庁への報告書提出と同時に記事を出す段取り。河村は「署名記事で出す。匿名では効果が薄い」と言い切った。記者としての覚悟。彼女もまた、名前を差し出している。
芝山がダンジョン庁側の裏付けを確認した。スキル登録更新の受理証明と、庁が雷電に対して発行した追加照会の記録。添付資料として使う。芝山は書類を出したが、電話の声に以前のような温かみはなかった。事務的な対応。協力はする。だが、それ以上は踏み込まない。
四方面を同時に動かしながら、わたしは中心で全ての書類を統合した。毎晩、第三課のデスクで書類を広げた。コピー機の排熱が部屋の空気をわずかに温めている。有坂が残業用のコーヒーを淹れてくれる。蓮田が隣で別の案件の決裁をしながら、時折、わたしの画面を覗き込んだ。
報告書の最終版。A4用紙四十二ページ。添付資料を含めると百七ページ。製本テープで綴じた。インデックスタブを貼った厚さ二センチのファイル。
Tier1で全ページの整合性を確認した。一枚目から四十二枚目まで、色が浮かぶ。赤はない。黄もない。青だけの報告書。全ての記述が事実。全ての数字が正確。全ての証拠が本物。このスキルを得て以来、青だけで構成された書類を作ったのは初めてだった。嘘のない四十二ページ。
有坂がページ番号の連番を確認し、目次との整合性をチェックした。早乙女が添付資料の通し番号と本文の参照箇所を照合した。蓮田が表紙に目を通す。
九月十六日、火曜日。午後六時十八分。第三課。残業の蛍光灯が、白い光を落としている。窓の外は暗くなっている。九月の日没は早い。ビルの谷間にネオンの光が見え始めた。
「宇津木。この報告書のタイトルは何にする」
蓮田の声が静かだった。報告書の表紙を見ている。タイトル欄だけが空白。
「『雷電グループ関連保険金詐欺に関する調査報告書——三豊ダンジョン保険株式会社 損害査定部第三課 例外案件係』」
「長いな」
「長くていいんです。全部、書きます。省略も、匿名も、持って回った言い方もしない。わたしたちが誰で、何を調べて、何を見つけたか。全部書いて、全部出す」
蓮田が報告書の表紙から目を上げた。わたしを見ている。蛍光灯の光の下で、五十歳の課長の目に、何かが宿っている。怒りではない。悲しみでもない。諦観でもない。覚悟に近い。二度目は負けない。彼はそう言った。
「書け。全部」
有坂がタイトルを表紙に打ち込んだ。キーボードの打鍵音が第三課に響く。一文字ずつ。丁寧に。蛍光灯が一度だけ明滅した。いつものあの一本。
書類は完成した。あとは、この書類を、正しい場所に届けるだけだ。




