第52話「告発状」
封筒は、九月八日の月曜日に届いた。
三豊ビル北館の一階受付に、配達証明付き郵便として。宛名は「宇津木伊吹 様」。差出人は「水守達也法律事務所」。所在地は千代田区丸の内一丁目。受付の女性社員がわたしのデスクに内線を入れてきたのは、午前九時四分。始業から四分後。配達証明の受領印を押すために、一階まで降りた。
エレベーターの中で封筒を裏返した。糊付けの跡が均一。機械で封をしている。法律事務所の事務処理。封筒の表面に【真贋鑑定】を走らせた。宛名の文字。差出人の住所。送達日付。全て青。この封筒に嘘はない。
十二階に戻り、デスクの上で封を切った。ペーパーナイフの刃が封筒の口を滑る。中身はA4の書面が五枚。クリップで留められていた。紙は上質紙。水守の事務所のレターヘッド。印刷インクの匂いが微かに残っている。
一枚目。表題。
「通告書——宇津木伊吹氏に対する告発予告および法的措置の通知」。
二枚目から四枚目。本論。
第一項。スキル登録に関する虚偽申告の疑い。宇津木伊吹のスキル【真贋鑑定】は、二〇二六年四月の覚醒以降、Tier1として登録されていたが、実際にはTier2およびTier3の能力を保有していた。六ヶ月の届出期限内ではあるものの、能力発現後ただちに届出を行わなかったことは、探索者登録法の趣旨に照らし不誠実な対応であり、故意の情報秘匿と評価し得る。
第二項。ダンジョン内での無許可能力行使。二〇二六年八月二十五日、新宿第七ダンジョン四十五層において、登録外の能力(Tier3「言質拘束」)を桐生鷹志に対して使用した。使用時点でTier3は未登録であった。未登録スキルのダンジョン内使用は、探索者登録法第十四条第二項に抵触する。
第三項。民事訴訟の予告。上記行為により桐生鷹志が受けた精神的・法的損害について、桐生鷹志を原告とする損害賠償請求訴訟を提起する準備がある。請求額は弁護士費用を含め相当額となる見通しである。
五枚目。水守達也の署名と事務所の角印。日付は九月五日。発送から三日で届いている。
全文に【真贋鑑定】を走らせた。
青。全て、青。
法的事実の記述に一切の虚偽がない。第一項の「不誠実な対応」は法的評価であって事実の陳述ではないから、色は付かない。第二項の「未登録スキルの使用」は事実。Tier3を四十五層で使ったのは八月二十五日。登録更新の提出は八月二十六日。一日の差。時系列として正しい。第三項の訴訟準備も青。本当に準備している。
蓮田がわたしのデスクに歩いてきた。書面を見下ろしている。コーヒーの匂いが上から降ってくる。
「水守か」
「はい。個人宛の告発予告です」
蓮田が書面を手に取った。一枚ずつ読む。表情が変わらない。五枚読み終えて、デスクに戻した。
「青か」
「全文青です」
「だろうな。あの弁護士は嘘をつく必要がない。法律そのものが武器だから。弾は全部本物。当たれば効く」
*
佐伯に電話した。午前十時。四谷三丁目の事務所。
告発状の内容を読み上げた。佐伯は全て聞き終えてから、三秒の間を置いた。背景にペンのノック音。メモを取っている。
「法的には根拠が薄い。三点あります」
佐伯の声は冷静だった。
「第一に、スキル登録の更新は六ヶ月以内の届出で有効です。宇津木さんの届出は期限内。裁判所が『不誠実』を違法と評価する可能性は低い。第二に、Tier3の使用時点での未登録について。届出義務は使用の有無ではなく、能力発現を基準にします。発現後六ヶ月以内に届ければ法的義務は果たしている。第三に、損害賠償の因果関係。桐生さんは自発的に約束したのだから、Tier3による契約化を損害と主張するのは困難です」
「つまり、法廷では勝てる」
「勝てます。ただし」
佐伯の声が一段低くなった。
「勝てるかどうかは問題の本質ではありません。訴訟を起こされること自体が圧力になる。応訴に時間がかかる。弁護士費用がかかる。訴訟が係属している間は、あなたの行動が心理的に制約されます。水守さんは勝つために訴訟を準備しているのではない。あなたを止めるために準備しています」
「分かっています」
「では、止まらないでください。水守さんの武器は法律です。法律は時間がかかる。その時間を、向こうが使い終わる前に、こちらの仕事を終わらせることです」
電話を切った。受話器を置いた手が、一瞬だけ止まった。佐伯の助言は明確だった。止まるな。時間を使え。先に終わらせろ。
蓮田が自分のデスクから声をかけた。
「佐伯は何と」
「法的には勝てると。ただし、訴訟自体が圧力であって、水守の目的は勝敗ではなくこちらの足止めだと」
「だろうな。銀行にもいた、そういう弁護士。訴状を紙の盾にして、相手の動きを止める。勝ち負けじゃなく、時間を奪う」
蓮田がマグカップを傾けた。空だった。底に乾いたコーヒーの跡が残っている。
*
デスクに戻ると、有坂がいなかった。
早乙女が給湯室の方を顎で示した。わたしは立ち上がって、給湯室に向かった。
ドアが半分開いている。有坂が流し台の前に立っている。背中を向けて。肩が震えていた。
声は出していない。
有坂しおん。二十二歳。嘱託月額八万円。右手首に火傷跡。四月に保険金詐欺に巻き込まれた被害者として出会い、第三課で書類整理とコーヒーを担当するようになった。今日も朝一番に豆を挽いている。ケトルの横に、挽いた豆の袋が置いてある。中深煎り。いつもの銘柄。
わたしが給湯室に入ると、有坂が振り返った。目が赤い。頬に涙の跡が二筋。だが、声は出していない。泣き声を上げない。この子はそうやって泣く。五月に拉致されたときも、救出されたときも、声を上げなかった。
「宇津木さんが個人で訴えられるなんて。あの、あたしが何かしたから」
「あなたのせいではありません」
「でも、あたしがダンジョンについていったから。あたしが回復担当で入ったから。あたしがいなかったら四十五層まで行けなくて、Tier3を使わなくて済んだかもしれなくて」
有坂の声が途切れた。涙が顎先から落ちて、流し台のステンレスに小さな音を立てた。
「有坂さん」
早乙女の声が、給湯室の入口から聞こえた。
カーゴパンツのポケットに手を突っ込んだまま、壁にもたれている。有坂を見ている目に、怒りはない。
「泣くな」
有坂が動きを止めた。
「泣いてもいい。でも、泣き終わったら仕事しろ」
早乙女の声に、冷たさはなかった。三年前に冤罪を着せられ、警察を辞め、それでも仕事を続けてきた女の声だった。泣くことを否定していない。泣いた後のことを言っている。涙を流す権利と、その後に立ち上がる義務。早乙女灯里はその両方を知っている。
有坂が左の袖で目を拭った。右手首の火傷跡が見えないように、いつも左手を使う。鼻を一度すすって、長く息を吐いた。
「仕事します」
「よし。コーヒー淹れろ。課長の分から」
有坂が頷いた。流し台に向き直り、ケトルに水を入れた。蛇口から出る水の音が、ステンレスに反響する。ケトルを火にかける。ガスコンロのカチカチという着火音。小さな炎が青く立った。有坂の手は、もう震えていなかった。
わたしはデスクに戻った。
告発状を机の上に広げたまま、【真贋鑑定】でもう一度確認した。五枚のA4用紙。水守達也法律事務所のレターヘッド。全文青。法的に一点の隙もない。水守達也は嘘のない刃で切りつけてくる。
嘘のない武器で切りつけてくる相手に、どう対抗するか。嘘のない証拠で、もっと深く切り返す。




