第51話「内部通報者」
氷室からの匿名メールが途絶えたのは、九月に入ってからだった。
最後のメールは八月十九日付。鶴岡の内部通達に関する補足情報で、内容は「代表名義の社外文書発行停止は二年前ではなく二年半前。起算点は鶴岡がパナマの法人との取引を開始した時期と一致する」というもの。いつもの匿名アドレスから、暗号化された添付ファイル付きで。
八月二十九日。九月一日。九月三日。新しいメールは来ない。
匿名の情報提供者が突然連絡を絶つ理由は二つしかない。情報が尽きたか、情報を出せなくなったか。
九月五日、金曜日。午前九時三十分。わたしは三豊ビル北館の内線電話で、本社企画部の代表番号を叩いた。
「本社企画部ですが」
「損害査定部第三課の宇津木です。氷室主任はいらっしゃいますか」
電話口の向こうで、キーボードを打つ音が止まった。二秒の間。
「氷室は先週から休職しております。ご用件でしたら、担当の横田が引き継いでおりますが」
「いえ。結構です。ありがとうございます」
受話器を置いた。
「休職」
蓮田がこちらを見た。マグカップを口元に運ぶ手が止まっている。
「氷室さんが休職しています。先週から。理由は聞いていません」
蓮田が手を止めた。
「匿名メールが止まった時期と一致するな」
「はい。八月下旬からメールが来なくなり、九月に入って休職。逆算すると、八月中旬から何かが起きていた可能性があります」
早乙女が自分のデスクの引き出しから、古い手帳を出した。冤罪編のときに使っていた記録用の手帳。ページをめくる音。
「氷室がUSBを渡したのは五月。匿名メールの送信は六月から八月まで。約三ヶ月間、情報を提供し続けていた。三ヶ月あれば、アクセスログの痕跡追跡は十分可能だ」
「本社企画部内で、内部通報者の特定が始まっている」
わたしの声に、有坂がペンを止めた。ノートの上にインクの染みが落ちた。
「氷室さんが、ばれた、ということですか」
「確定ではありません。ただ、休職の時期が一致しすぎている」
有坂がノートの染みを指先で押さえた。紙に広がっていく黒い円を見つめている。
*
昼休み。三豊ビル北館の一階ロビー。自販機の前。いつもの場所。
個人携帯から氷室の個人番号に電話した。業務用の回線は本社企画部を経由するから使えない。氷室の個人番号は、五月にUSBを受け取ったときに交換したもの。
三回のコール。四回目で、出た。
「宇津木さん」
氷室の声は平静だった。企業戦略部門の主任の声。冷たい敬語。だが背景の音が違う。オフィスの空調音がない。代わりに、微かな車の走行音。窓が開いた部屋。あるいは、ベランダ。自宅ではない。マンションの外廊下の音に近い。
「氷室さん。お元気ですか」
「元気ですよ。心配されるようなことはありません」
【真贋鑑定】は電話越しでも機能する。声は言明だから。
「心配されるようなことはありません」——青。嘘ではない。氷室自身は、心配されるべき状態だとは思っていない。
「休職されていると伺いました」
「ええ。自分の判断で、休んでいるだけです」
青。本当に自分の判断。誰かに強制されたわけではない。氷室瑞樹は自分の意思で休職を選んだ。エリートの矜持。追い出されるのではなく、自分から退く。彼はそういう人間だった。
だが。
自分の判断であることと、判断の背景に圧力がないことは別の問題だった。氷室は、追い詰められた結果として自発的に退いている。自発的だから青い。しかし、退かなければならない状況を作ったのは、本社企画部内の動き。内部通報者の特定作業。
「氷室さん。一つだけ確認させてください。わたしたちに提供していただいた情報が、追跡されている可能性は」
沈黙が三秒。車の走行音が遠くなった。風の音。
「可能性はあります。アクセスログの完全消去は不可能でした。時間の問題だとは思っていました」
青。氷室は最初から、自分がいつか特定されることを想定していた。
「ただし、宇津木さん。わたしがお渡ししたものの出所は、まだ特定されていません。アクセスログに残っているのは、わたしが特定のフォルダを閲覧した記録だけです。そのフォルダと、宇津木さんの手元にあるものとの接続は、まだ証明されていない」
青と黒が混じる。事実を述べている。だが「まだ」という言葉の裏に、時間的猶予が残りわずかであることを隠している。
「分かりました。無理はしないでください」
「無理はしていませんよ。休職中は、読書でもするつもりです」
電話が切れた。通話時間は二分十四秒。氷室の声は最後まで平静だった。三十歳の元同僚。銀行時代のわたしの不正融資告発を、距離を置いて見ていた男。USBを渡すとき、彼は「書類を読むのをやめた」と言った。読むのをやめたのではなく、読んで行動することを選んだ。その代価が、今、来ている。
*
第三課に戻った。
蓮田と早乙女に電話の内容を伝えた。有坂はコーヒーを淹れている。キッチンタイマーの電子音が給湯室から聞こえてきた。三分。蒸らしの時間。
「氷室は自分の意思で休職している。だが、内部通報者の特定は進んでいる。アクセスログの痕跡が残っている」
蓮田が椅子の背にもたれた。天井を見上げる。
「氷室を守れるか」
「直接は無理です。匿名の約束を破れば、氷室の立場が完全に潰れる。わたしたちが接触していること自体が証拠になりかねない」
「個人携帯で電話した時点で、ログは残ってるぞ」
「はい。だから短くしました」
早乙女がデスクに肘をついた。指先で机の角を叩いている。三回。
「守れないなら、氷室が安全に戻れる状況を作るしかない。内部通報者の特定が進んでも、通報された内容が正式に問題化していれば、氷室は保護される。公益通報者保護法の適用要件を満たせば」
「そのためには、雷電の不正が公式に認定される必要がある。金融庁なり、ダンジョン庁なり、公的機関が雷電の再保険詐欺を正式に調査対象にすれば、氷室の通報は公益通報として法的に保護される」
蓮田が天井から視線を戻した。わたしを見ている。
「つまり、桐生を落とすことが、氷室を守ることになる」
「はい。桐生の自白はTier3で契約化されています。録音もある。これを公式の場に出せば、金融庁は動かざるを得ない。金融庁が動けば、氷室の情報提供は公益通報として保護対象になる」
「順序が逆転したな」
蓮田がコーヒーを一口飲んだ。
「味方を守るために、敵を倒す。普通は逆だ。敵を倒してから味方が安全になる。だが今回は、味方がいつまでも安全でいられるわけじゃない。猶予がある。その間に、敵を倒す」
有坂がコーヒーを持ってきた。マグカップ三つ。蓮田のデスクに置き、わたしのデスクに置き、早乙女のデスクに置く。深煎りの匂い。有坂の淹れ方は、この半年で確実にうまくなっている。
「宇津木さん。あの、氷室さんのこと。あたし、何かできることありますか」
「あります。報告書を作ります。全証拠を統合した報告書。桐生の自白、鶴岡の音声記録、監査報告書の除外五件、乃木坂の証言記録、USB の全データ。これを一つにまとめる。有坂さんには、データの整理を手伝ってもらいます」
有坂が頷いた。右手で左手首を握っている。火傷跡の上に、指が載っている。
味方を守るために、敵を倒す。順序が、逆転した。




