第50話「登録」
水守の照会書が動いたのは、ダンジョンから戻った翌日のことだった。
八月二十六日、火曜日。午前十時十二分。三豊ビル北館十二階。第三課のデスクで右目に有坂の軟膏を塗っていたところに、総務部の内線が鳴った。
「損害査定部第三課、宇津木です」
「ダンジョン庁から書面が届いています。宇津木伊吹さん個人宛で、三豊総務部経由。受け取りにお越しください」
総務部の窓口まで取りに行った。蓮田が一階まで同行する。エレベーターの中で二人きりになった。蓮田の左手にはいつものマグカップはない。代わりに胸ポケットに携帯電話を入れている。法務部への連絡用。
「水守の動きが早い。照会を出してから二十四時間で庁から書面が来るのは、事前に根回しが済んでいたということだ。桐生がダンジョンの中で何かを察知した瞬間に、水守はもう動き始めていた」
「同感です。桐生と水守の連携は、想定以上に緊密です」
「桐生は四十五層からこの速度で指示を出せる。ダンジョンの中から携帯は使えない。つまり、桐生が地上に出た時点で即座に水守に連絡した。地上に出てから俺たちが出るまでの時間差。早乙女の計算だと二時間弱。その二時間で水守は照会の準備を済ませた」
エレベーターが一階に着いた。ドアが開く。ロビーの大理石の床を歩く。総務部の窓口で封筒を受け取った。ダンジョン庁の公印。青いインクで押された楕円の印影。
中身は「スキル登録確認依頼書」。宇津木伊吹のスキル【真贋鑑定】について、登録内容と実際の能力に乖離がないかの確認を求める公文書。回答期限は十五営業日。担当は監察部門主任調査官・芝山幸雄。
第三課に戻った。封筒の中身をデスクに広げた。蓮田、早乙女、有坂の三人が集まる。ダンジョン庁の書面がデスクの上で白く光っている。
「スキル登録の確認依頼です。担当は芝山さん」
蓮田がデスクに戻り、コーヒーを一口飲んだ。カップを置く音が硬い。陶器と木のデスクが接触する、短い衝撃。
「来たな。俺が最初に『上には黙っとけ』と言った判断が、ここに来て裏目に出ている」
沈黙が落ちた。空調の送風音。蛍光灯が微かにジーと鳴っている。いつもの音。だが今日はその音が耳障りに聞こえた。
Tier2とTier3。これまで三豊の社内にも、ダンジョン庁にも、正式には申告していない。蓮田の判断で伏せていた。第三課の四人だけが知っている情報。それが水守の照会で、公式のルートに乗った。隠し通すという選択肢が、消えた。
「蓮田さん。わたしは登録を更新すべきだと思います」
「更新する。Tier2とTier3を正式に申告しろ」
蓮田の声に迷いがなかった。椅子に座り直す。背もたれが軋む。
「隠し続けるリスクのほうが高くなった。水守が照会を出した時点で、ダンジョン庁は調査に動く。その前にこちらから申告すれば、少なくとも『虚偽申告』の疑いは消える。後出しの更新でも、期限内であれば手続き上の瑕疵はない」
「ただし、Tier3を公式に登録すれば、本社が黙っていません。人事が動きます。査定部長を通じて引き抜きが来る」
蓮田が椅子から立ち上がった。窓に歩く。ブラインドの隙間から外を見る。八月の空。積乱雲の底が白い。ビルの谷間を熱気がゆらゆらと昇っている。
「引き抜かせない」
蓮田は振り返らずに言った。窓の外を見たまま。背中で喋っている。
「お前は第三課の査定官だ。俺の部下だ。人事権は俺にはないが、辞表は俺が受理しない。辞表を出すなら俺に出せ。俺は引き出しに入れて鍵をかける」
早乙女が腕を組んだまま、天井を見上げた。
「課長。その台詞、銀行時代にも誰かに言ったことあるだろ」
「ない。銀行時代に守りたかった部下は、俺が守る前に飛ばされた」
蓮田がこちらを見た。窓の逆光で顔に影が落ちている。五十歳の男の目。銀行を出て、保険会社の閑古鳥課の課長になって、十二年。守れなかった部下の記憶。
「今度は飛ばさせない。二度目だからな。二度目は、負けない」
*
スキル登録更新の手続きは、その日の午後に開始した。
探索者協会のTier変更を伴う重大更新は書面提出が必要になる。佐伯弁護士に電話して、手続きの法的要件を確認した。佐伯の事務所は四谷三丁目。電話口の向こうで、ボールペンのノック音が聞こえた。
「更新申請自体は問題ありません。Tier1登録のスキルに追加能力が発現した場合、六ヶ月以内の届出が義務付けられています。宇津木さんのTier2は四月発現、Tier3は八月。Tier2の届出期限は十月ですから、まだ間に合います」
「虚偽申告と解釈される余地は」
「発現後六ヶ月以内の届出であれば、意図的な隠蔽とはみなされません。探索者登録法の趣旨は、能力変化の適時開示であって、即時開示ではありませんから。水守がその点を突いてきても、法的根拠は薄い」
電話を切り、申請書に記入した。
スキル名:【真贋鑑定】。
Tier1:書類・口頭発言の真偽を四色(青・黄・赤・黒)で可視化。
Tier2:ダンジョン内の構造仕様を文字列として可視化。罠の設置条件、魔物の出現パターン、安全ルートを読み取り可能。
Tier3:口頭約束を契約条項として物理的に固定。約束した本人に拘束力が発生する。使用は一日一回が限界。
反動の記載。Tier2:頭痛および視覚障害(右こめかみの鈍痛、視界端のちらつき。回復に数週間から一ヶ月)。Tier3:右目視界の一時的完全喪失(回復に数日から二週間。回復軟膏で緩和可能)。
有坂がわたしのデスクの横に立っていた。申請書を覗き込んでいる。
「宇津木さん。反動のところ、『回復軟膏で緩和可能』って書いてくれたんですね」
「事実ですから」
有坂は何も言わず、小さく頷いた。右手で自分の左手首を握っている。
署名した。右目がまだ白いので、左目で文字の位置を確認しながら。ペンの先端が紙に触れる感触。インクの匂い。
*
芝山との面談は二日後の八月二十八日だった。
ダンジョン庁第三審査棟。五階の面談室。窓のない部屋。蛍光灯が二本、天井で白い光を落としている。机は灰色のスチール。椅子はパイプ椅子。取調室のような無機質さ。
芝山は灰色のスーツに黒いネクタイ。四十五歳の監察官の顔に、七月の保管庫閲覧のときよりも深い皺が刻まれている。
「宇津木さん。更新申請を受理しました。内容を確認しますので、同席をお願いします」
芝山が申請書を読み上げた。Tier1。Tier2。Tier3。それぞれの能力定義と反動。淡々と読み上げる声が、Tier3の項目で一瞬止まった。ペンが紙の上で停止している。
「口頭約束の契約条項化。約束した本人に拘束力が発生する」
芝山が書面から目を上げた。
「これは、相当な能力ですね。戦闘スキルではありませんが、社会的な影響度で言えばA級の戦闘スキルを超える可能性がある」
「はい」
「正式に登録されれば、ダンジョン庁の管理対象スキルに指定される可能性があります。Bランク以上の戦闘スキルと同等の管理区分です。使用報告の義務が発生する」
芝山の目の中に、以前とは異なるものがある。七月の保管庫閲覧のとき、芝山はこちらの味方だった。条件付きではあったが、協力者だった。今、その目は違う。観察している。値踏みではない。査定。この能力をどう扱うか。庁内の力学の中でどう位置づけるか。計算をしている。組織の人間として。
「宇津木さん。これで、あなたは公の場に出ました」
芝山の声に、以前よりも明確な硬さがあった。
「守りは、薄くなりますよ」
味方の言葉ではなかった。警告でもなかった。事実の通告。芝山幸雄は組織の人間であり、組織の論理で動く。蓮田が七月のあとに言った通り。「あの男は組織を選ぶ」。
「承知しています」
面談室を出た。廊下の白い光の中を歩く。右の視界の靄と、壁の白さの区別がつかない。
影から出た。影に戻ることは、もうできない。




