第49話「雷鳴」
帰りの四十五層分は、降りたときの倍の時間がかかった。
右目の視界はない。白い壁。Tier3の代価は前回と同等か、それ以上だった。Tier2の仕様書を再起動する余力は残っていなかったが、降りたときのルートを早乙女が記憶していた。罠の位置も、安全な通路も、わたしが指示した内容を彼女は一つ残らず暗記している。元刑事の記憶力。帳場で叩き込まれた現場把握。
「三十八層。分岐は右。三秒間隔のやつは解除されてるはず、降りのときは一方通行トリガーだから」
早乙女の声が前方から聞こえる。短剣を構えたまま、後方のわたしと有坂を振り返る頻度が増えている。呼吸は安定しているが、額の汗が乾いていない。四十五層往復はC級探索者の限界に近い。
有坂がわたしの右腕を支えている。百五十七センチの小柄な体で、百七十センチのわたしを半ば引きずるように歩かせている。リュックサックの重みと、わたしの体重と。右手首の火傷跡がある手で、わたしの腕を掴んでいる。指先の力が強い。爪が食い込んでいるのが分かるが、痛みはない。右目の白い壁のほうが、神経を占有している。
「有坂さん。重いでしょう」
「軟膏あと四本あります。大丈夫です」
質問に答えていない。だが、有坂の声は震えていなかった。
三十二層。蛍光苔の領域を抜けた。照明が必要になる。早乙女が携帯用の魔素ランタンを点けた。橙色の光が通路に広がり、壁面の石材の凹凸が影を作った。
桐生の抑制域を離れたのは三十層前後だった。そこから魔物が出始めた。影蜘蛛。降りたときに早乙女が処理した個体の同種が、天井から降ってくる。金属が甲殻を裂く音。床に落ちるドロップ品の乾いた音。右側が見えないわたしの代わりに、有坂が右方向の警戒を引き受けた。回復軟膏の瓶を握りしめたまま。
二十四層で早乙女の動きが鈍くなった。
「大丈夫。足がつっただけ」
嘘ではなかった。だが「だけ」ではない。九時間近い連続行動の蓄積が、C級の体力を削っている。右太腿を三十秒揉んで、立ち上がった。短剣を構え直す手に、わずかな遅れがある。
十五層。十層。七層で有坂が転びかけた。リュックサックの重みに足を取られた。わたしが左手で襟を掴んで支えた。右目が見えない状態で、左目の端で有坂の動きを捉えていた。有坂は「すみません」とだけ言って、また歩き始めた。
五層。一層。
入口ゲートの光が見えたとき、三人とも足を速めた。ゲートをくぐる。魔素の境界を越えた瞬間、空気が変わった。地下三階の人工照明。空調の冷気。ダンジョン内の金属臭が消え、代わりにビル地下のコンクリートの匂い。探索者協会の受付窓口が見える。帰還登録の端末に、早乙女が三人分のIDをかざした。
八月二十五日。午後四時二十三分。入場から九時間二十三分。
有坂がリュックサックを降ろして、回復軟膏の瓶を開けた。
「宇津木さん、座ってください。右目に塗ります」
地下三階の待機用ベンチに腰を下ろした。有坂の指先が、右まぶたの上に軟膏を薄く塗る。冷たい。薬草と蜜蝋の匂いが鼻孔に沁みた。塗布された瞬間、右目の奥がじんわりと温かくなる。視界は戻らない。だが、奥にあった圧迫感が少し和らいだ。
「前回も六日で七割まで回復しましたから。今回も、きっと」
「ありがとうございます」
*
地上への階段を上がった。地下二階。地下一階。地上出口のドアを押す。
八月の夕方。まだ明るい。西日が新宿のビル群を橙色に染めている。アスファルトの照り返しが顔を包む。排気ガスと、どこかの飲食店から漂う油の匂い。蝉の声が頭上の街路樹から降ってくる。地上の空気は生ぬるかった。
出口の前に、男が立っていた。
スーツ姿。ネイビーの三つ揃い。黒縁の眼鏡。細身。四十代前半。革靴は磨かれ、ネクタイの結び目に歪みがない。八月の西新宿で、三つ揃いのスーツに汗の染みが一つもない。ダンジョン入口の前に、弁護士が立っている。
水守達也。
三月の法廷以来、五ヶ月ぶり。あのときはネイビーのスーツの上に法服を羽織っていた。今はスーツだけ。だが立ち姿は法廷と同じ重量を持っていた。背筋が真っ直ぐで、両手は体の前で組まれている。書類鞄が足元に置かれている。
「宇津木さん。お疲れのところ恐縮です」
水守の声は平坦だった。事務的で、抑揚がない。温度がない。だが、その声を聞いた瞬間、背中の汗が冷えた。この男がここにいること自体が異常だった。ダンジョンの入口で、スーツで、八月の西新宿で、何時間も。
「水守さん。どうしてここに」
「桐生さんから連絡がありました。本日、宇津木さんとダンジョン内で対話した旨。その内容について、法的に確認すべき事項が生じたため、参りました」
【真贋鑑定】。水守の発言。「桐生さんから連絡がありました」——青。「法的に確認すべき事項」——青。全て真実。水守は嘘をつかない。嘘のない刃。告発状も、通告書も、照会文も、この男が書く書類は全て青い。
「具体的には」
「あなたのスキルについて、ダンジョン庁に正式な照会を出します」
水守が足元の鞄から封筒を取り出した。A4の白い封筒。宛名は三豊ダンジョン保険株式会社宛ではなく、宇津木伊吹個人宛。
「宇津木さんのスキル【真贋鑑定】は、探索者協会に登録されたTier1の情報系スキルです。しかし本日ダンジョン内で桐生さんが確認した現象は、登録内容と著しく乖離している可能性がある。スキルの登録外能力行使は、探索者登録法第十四条第二項に抵触します」
水守の声には一切の感情がない。法律の条文を読み上げるように正確で、乾いた言葉が並ぶ。夕日の中で、ネイビーのスーツの肩に橙色の光が載っている。
「正式照会の内容は、宇津木さんのスキルが登録内容と実際の能力に乖離がないかの確認、およびダンジョン内で使用されたスキル効果の検証です。照会先はダンジョン庁監察部門。担当は芝山監察官になるかと存じます」
芝山。あの名前がここで出る。
封筒を受け取った。左手で。右目が見えないから、左手で封筒の角を掴んだ。紙の重み。中身は複数枚。
早乙女がわたしの横に並んだ。水守との距離を半歩詰めている。
「あんた、ここで何時間待ってたんだ」
水守が早乙女を見た。表情は変わらない。
「四時間ほどです。桐生さんから連絡をいただいたのが正午過ぎでしたので」
四時間。八月の昼間に、ダンジョンの入口で四時間。スーツで。ネイビーの三つ揃いで。革靴で。コンクリートの上に四時間立ち続けていた。鞄を足元に置き、両手を前で組んで。それが水守達也という人間だった。勝訴率九十二パーセントの弁護士。東大法学部首席。嘘のない刃を振るう男。
「では失礼します。書面の内容はご確認ください。回答期限は十営業日です」
水守が歩き去った。革靴がアスファルトを叩く乾いた音。新宿の雑踏に消えていく。ネイビーの背中が、夕日の中で黒く見えた。
封筒を左手で持ったまま、しばらく立っていた。
「あの弁護士」
早乙女の声に、苛立ちとは異なる色がある。警戒。そして、かすかな感嘆。敵に対する敬意に似た何か。
「ダンジョンの入口で待ってたんだよ。何時間もかけて。スーツで、この暑さの中で。あいつも、普通じゃない」
普通ではない。水守達也は、どんな戦場でも法律を武器にする。法廷でも。ダンジョンの入口でも。Tier3で桐生を拘束しても、水守がそれを法律で解体しにくる。
書類の外で戦ったはずが、書類に戻ってきた。水守は、どんな戦場でも、法律を武器にする。
右目は、まだ白いままだった。




