第45話「盤上の駒」
河村に電話したのは、八月十八日の月曜日だった。
六日が経っていた。眼鏡の奥で、右の視界がぼんやりと景色を拾い始めている。輪郭が戻ってきた。文字はまだ左目頼みだが、壁の付箋の色は見分けられる。有坂の軟膏が効いているのだろう。
「河村さん。鶴岡武彦について、記事にできる情報はありますか」
昼休み。三豊ビル北館の一階ロビー。自販機の前。缶コーヒーを買って、壁にもたれている。エレベーターのチャイムが時折鳴る。八月の半ばを過ぎても、ビルの中は空調が効いている。ロビーの大理石の床に、革靴の足音が反響していた。
「鶴岡武彦。宇津木さん、そこまで遡るんですか」
「遡ります」
「探索ジャーナルの過去記事をさらいました。鶴岡の名前が出る記事は、十二年前の雷電設立時の一本だけです。短い言及で、写真なし。以降は、一切取材に応じていません」
「十二年前の一本のみ」
「ええ。あたしの先輩記者にも当たりましたが、鶴岡に取材できた記者は一人もいない。業界の懇親会にも出ない。パーティーにも出ない。顔を見たことがある記者がいない」
河村の声に、わずかな苛立ちがある。記者として、取材対象にアクセスできないことへの不満。
「設立時の記事の内容は」
「短いです。『雷電グループホールディングス株式会社が設立。代表取締役に鶴岡武彦氏が就任。副代表取締役にS級探索者の桐生鷹志氏。資本金三億円。ダンジョン関連事業の総合持株会社として、探索クラン運営および関連保険事業を展開する』。以上。経歴記載なし。コメント引用なし」
「十二年前で、すでに匿名に近い」
「そうです。記事を書いた先輩記者に訊きましたが、鶴岡は設立記者会見にも出席しなかったそうです。桐生が一人で対応した。代表取締役が設立会見に出ないのは、極めて異例です」
缶コーヒーを一口飲んだ。甘い。微糖と書いてあるが甘い。金属の缶が指先に冷たい。
「ありがとうございます。もう一点。鶴岡と桐生の関係について、何か出ていますか」
「公開情報の範囲では何も。ただ、業界関係者の間では『桐生は鶴岡の子飼い』という噂があります。桐生が十代の頃からダンジョンに入っていて、鶴岡がスポンサーだったという話。裏は取れていません」
「十代の頃から」
「S級に到達したのが二十三歳。異例の速さです。ダンジョン庁の登録によれば、初回登録は十七歳。未成年のダンジョン入場は親権者の同意が必要ですが、桐生の登録書類上の保護者は、これは公開情報ですが、父親の桐生一志。すでに故人です」
「父親が雷電の設立に関わっていた可能性は」
「調べます。設立時の取締役会の構成は登記簿で分かるはずです。ただ宇津木さん、一つ気になることがあって」
「何ですか」
「十二年前の設立記事を書いた先輩が言ってたんですが、鶴岡の印象が『経営者の顔じゃなかった』と。一度だけ電話で話したことがあるらしいんですが、声が静かすぎる、と。何を訊いても同じトーンで答える。感情の起伏がない。交渉に慣れた経営者とも違う。もっと、何というか」
「何と言っていましたか」
「『公務員みたいだった』と。官僚に近い喋り方。自分の考えを言わない。全部、組織のルールに沿って答える。個人が見えなかった、と」
缶コーヒーを飲み干した。空き缶をゴミ箱に入れる。底に残った液体の甘い匂い。
*
第三課に戻ると、蓮田が書類を読んでいた。有坂がコーヒーを淹れている。早乙女は不在。今日の午前はダンジョン庁で別件の査定立会いだった。
「河村から情報を得ました」
デスクに座り、推理を整理する。ホワイトボードの前に立つ。黒いマーカーのキャップを外した。インクの揮発臭。
「鶴岡武彦。雷電グループの創設者で、実質的なオーナーです。十二年前に設立。それ以降、公の場に一度も出ていない。取材を受けていない。写真がない」
ホワイトボードに書く。「鶴岡武彦=オーナー」。
「桐生鷹志。S級探索者。雷電の『顔』。副代表だが、実際の対外活動は全て桐生が担っている。桐生は十七歳でダンジョン入場登録。二十三歳でS級到達。スポンサーは鶴岡だったと推定されています」
「桐生鷹志=顔(代理人)」。
「つまり、桐生は鶴岡の子飼いです。十代から鶴岡に育てられ、S級に到達し、雷電の副代表に据えられた。経営判断は全て鶴岡が握っている。桐生は鶴岡の代理人であり——」
二つの名前を線で結ぶ。
「桐生を失脚させても、鶴岡が別の『顔』を立てるだけです。構造は変わらない」
蓮田がマグカップを手に持ったまま、ホワイトボードを見ている。
「だったら桐生を落とす意味はないのか」
「いえ。桐生を落とすことで、鶴岡は次の駒を出さなければならない。次の駒は桐生ほど完璧ではない。S級の看板もない。業界の信頼もない。隙が生まれます」
「隙」
「鶴岡の強みは、桐生という完璧な盾を持っていたことです。桐生がいなくなれば、鶴岡は盾なしで立つことになる。その瞬間を、わたしたちは待つ」
蓮田が椅子の背にもたれた。椅子が軋む。
「気の長い話だな」
「気は長いです。ただ、一手ずつ進めるしかない」
有坂がコーヒーを持ってきた。蓮田のデスクとわたしのデスクに。深煎りの匂い。いつもの豆。有坂は自分のマグカップを両手で抱えるようにして、ホワイトボードを見ている。
「宇津木さん。あの、鶴岡って人は、このまま名前が出てこないかもしれないんですよね。ずっと桐生さんを前に立たせて」
「その可能性はあります」
「でも、宇津木さんのスキルは書類が必要で。書類を書かない人は——」
「見えません。だからこそ、桐生を通して鶴岡を動かす。桐生が動けなくなれば、鶴岡が自分で動かざるを得なくなる」
有坂はノートにペンを走らせた。小さな文字で。鶴岡、オーナー、子飼い、桐生。黒い線で結ばれた関係図が、ノートの隅に描かれていく。
蓮田がコーヒーを一口飲んだ。
「銀行にもいたな、そういう人種。融資先の実質的なオーナーが表に出てこない案件。帳簿に名前がないが、全ての判子はそいつの判断で押されている。お前も銀行出身なら分かるだろう」
「分かります。わたしが告発した不正融資も、最終的な指示者は帳簿に名前がなかった。書類の裏にいる人間を追うのは、いつも同じ構造です」
「で、銀行のときは、その裏の人間はどうなった」
「逃げました。わたしが飛ばされて、終わりです」
蓮田が鼻で息を吐いた。笑いではない。
「今度は、飛ばさせない」
*
午後四時。早乙女が戻ってきた。
デスクに座り、カーゴパンツのポケットから封筒を出した。白い封筒。宛名はわたしの名前。手書き。
「これ、今日の午前中にダンジョン庁の受付に届いてた。あんた宛」
封筒を見た。差出人の欄。
「桐生鷹志」。
封を開けた。便箋一枚。白い紙に、万年筆の青いインク。丁寧な筆跡。
「宇津木さんへ。先日の約束は、わたしの一存では履行できない状況です。ご承知のことと思います。もう一度、お会いしましょう。次は、わたしの土俵で。——桐生鷹志」
手紙の文面に【真贋鑑定】を走らせた。
「わたしの一存では履行できない」——青。本当だった。桐生は約束を守りたかったが、鶴岡に止められた。
「もう一度、お会いしましょう」——青。本気で会いたいと思っている。
「わたしの土俵で」——この一行だけ、色が複雑だった。青と黒が重なっている。会いたいのは本当。だが、「土俵」の意味を隠している。
「『わたしの土俵』。桐生さんの土俵とは、どこですか」
蓮田が便箋を覗き込んだ。
「S級探索者の土俵は一つしかない。——ダンジョンの中だ」
早乙女が腕を組んだ。背もたれに深く沈む。
「ダンジョンの中か。あの男の領域だ」
「はい。書類が通用しない場所。S級の力が支配する場所。桐生は、わたしのスキルを無効化できる戦場を選んでいます」
「行くのか」
「行きます。ただし、条件はこちらから出す」
蓮田が立ち上がった。窓の方に歩く。ブラインドの隙間から外を見る。八月の午後。夏の盛り。ビルの谷間に積乱雲の底が見えている。夕立が来るかもしれない。
「早乙女。お前と有坂も一緒だ。ダンジョンの中にこいつ一人で行かせるな」
「当然」
有坂が小さくだが、はっきりと頷いた。ノートを閉じて、まっすぐ前を見ている。
桐生が、初めて、書類の外での勝負を求めてきた。




