第44話「鶴岡武彦」
桐生は約束を守ろうとした。
八月十四日、木曜日。三豊ダンジョン保険の業務連絡チャネルに、青葉リスクコンサルティングからの通知が届いた。
「雷電グループホールディングス株式会社より、外部特別監査の調査対象に五件の追加指示がありました。具体的な案件番号は以下の通り——」
五件。監査から除外されていた五件が、監査対象に戻された。桐生が副代表の権限で指示を出した。案件番号は、わたしたちが三豊の内部データと照合した結果、三つが一致した。残り二件は新規だったが、金額の大きさから見て、核心に近い案件である可能性が高い。
わたしはデスクで通知を読んでいた。左目で。文字を追う速度がいつもより遅い。有坂の軟膏を朝晩塗り続けているが、パークハイアットの夜の代価は、まだ消えていない。
「来たな」
蓮田がコーヒーを飲みながら言った。今朝は有坂が出社日で、豆を挽いていた。深煎りの匂いが第三課に漂っている。
「桐生は動きました。五件の追加指示を監査法人に出しています」
「Tier3の拘束力か。約束を破れなかったのか」
「それは分かりません。桐生が自発的に履行した可能性もある。ただ、どちらにしても」
午後になって、状況が変わった。
十四時二十三分。青葉リスクコンサルティングから、二通目の通知が来た。
「先ほどの五件追加の件につきまして、雷電グループ代表取締役・鶴岡武彦氏より当法人に直接ご連絡がございました。追加の五件については『現時点では不要。調査対象の決定は取締役会決議による』とのご指示です。つきましては、先の追加指示は保留とさせていただきます」
午前の追加指示から、わずか三時間後。鶴岡が動いた。桐生の動きを監視していたか、あるいは監査法人が鶴岡に事前報告する経路がある。どちらにしても、鶴岡の反応は速かった。
桐生の約束を、鶴岡が上から潰した。桐生が副代表の権限で出した追加指示を、代表取締役の権限で打ち消した。
「鶴岡が出てきた」
早乙女がデスクから顔を上げた。
「はい。桐生の約束を、鶴岡が直接、監査法人に連絡して取り消した」
わたしの視界の中で、何かが明滅した。
Tier3で生成された契約条項。桐生の約束が固定された、あの青白い文字列。それが視界の端でかすかに光っている。右目の白い靄の中に、文字列が浮かんでいる。普段は見えない。だが今、条項の文字が明滅している。
第三条。「違反時の効果」。
桐生は約束を履行しようとした。しかし、鶴岡が阻止した。桐生本人は約束を破っていない。だが約束の内容は実行されていない。
Tier3の「言質拘束」は、約束した本人のみに効力がある。本人が履行の意思を示したにもかかわらず、上位者が阻止した場合——拘束力はどうなるのか。
「条項が明滅しています」
「何だそれは」
「Tier3で生成された契約条項です。桐生の約束が固定された文字列が、視界の中で明滅しています。——しかし、桐生に対する拘束は発動していない。桐生は履行を試みた。阻止したのは鶴岡です」
蓮田が椅子を回した。
「つまり、Tier3は約束した本人には効くが、その上位者には効かないということか」
「そう考えるのが自然です。桐生は約束を守ろうとした。守ろうとしたこと自体が、桐生の誠意の証明にはなりますが——鶴岡を拘束する力は、Tier3にはない」
制約が見えた。Tier3の限界。口頭の約束を契約に変えることはできる。だが、その契約を上書きする権力構造までは、拘束できない。鶴岡は桐生の上に立っている。桐生を通して鶴岡を拘束することはできなかった。
「ただし」
わたしは二通目の通知をもう一度読んだ。左目で。
「ただし、鶴岡武彦が、初めて、わたしの視界に入りました」
*
監査法人への連絡記録を取り寄せた。蓮田が青葉リスクコンサルティングの担当パートナーに直接電話をかけ、連絡の記録の開示を求めた。「三豊ダンジョン保険は再保険の引受者として利害関係者です。監査結果が変更される場合の理由確認は、契約上の権利の範囲内です」。蓮田の声は平板だが、断る余地を与えない。
翌日。八月十五日。
青葉リスクコンサルティングから、連絡記録の写しがメールで届いた。
鶴岡武彦からの連絡は、電話だった。八月十四日の十三時四十一分。通話時間は二分十七秒。応対者は青葉リスクの担当パートナー。内容は「五件の追加調査は取締役会決議を経ていないため不要。保留とされたし」。
音声記録。通話は青葉リスク側で録音されていた。監査業務の記録保全として、クライアントとの通話は全て自動録音される。
音声データそのものは守秘義務を理由に開示されなかった。だが、通話の内容を書面化した「電話受付メモ」が添付されていた。A5サイズ。手書き。万年筆のインク。青葉リスクの担当パートナーが通話中にメモしたもの。走り書きだが、日付と時刻と発言者が明記されている。
【真贋鑑定】。
電話受付メモに色が灯った。
「鶴岡代表より電話。五件追加は不要との指示」——青。メモを書いた担当パートナーは正直に記録している。
だが、メモの中に引用された鶴岡の発言。「取締役会決議を経ていないため」——黒。
黒。意図的な隠蔽。取締役会決議を経ていないのは事実かもしれない。だが「決議がないから不要」というのは理由ではない。決議を通さなかったのは鶴岡自身であり、通さないことを選んだ。理由を隠蔽している。
鶴岡の声が、書類の上に残った。電話受付メモという形で。間接的な記録。手書きの走り書き。だが記録は記録。紙の上に名前が残った。それだけで意味がある。
そしてその記録の色は——黒一色だった。
「桐生の黒とは、違う色です」
わたしは蓮田と早乙女に向かって言った。有坂がノートにペンを走らせている。
「桐生の発言には、常に複数の色が混じっていました。赤と青。黄と黒。桐生は嘘をつくが、同時に本当のことも言う。感情がある。迷いがある。色が混じるのは、人間として当然です」
「鶴岡は」
蓮田の声が低い。マグカップを持つ手が止まっている。
「黒だけです。一色。嘘すら考えていない。嘘というのは『本当のことを知っていて、別のことを言う』行為です。赤は、そういう色です。黒は違う。黒は、最初から全てを隠している。本当のことを言う選択肢が存在しない。この人間は——」
言葉を選んだ。
「この人間は、全ての発言が隠蔽として設計されています。嘘をつく必要すらない。全てを隠すことが、この人間の通常状態です」
蓮田が椅子の背にもたれた。椅子が軋む。天井を見上げ、三秒。
「桐生は駒だ」
「はい。桐生は駒です。鶴岡が盤上を動かしている。桐生を通して、雷電を通して、監査を通して。全てが鶴岡の手の中にある」
六枚の付箋。『桐』『黒』『雷』『水』『乃』『鶴』。
六枚目の『鶴』に目が止まる。この名前の男の声を、わたしは初めて間接的に聞いた。電話受付メモという、最も薄い紙の上で。
窓の外で蝉が鳴いている。八月の午後。盆休みに入る会社が増え、北館の十二階は静かだった。隣のフロアの足音も聞こえない。空調の低い唸りだけが、第三課を満たしている。
聞いた瞬間に、理解した。
桐生は、駒だ。




