第43話「代価」
右目が見えなかった。
早乙女の車が首都高に乗り、四谷方面に向かう間、わたしは助手席で目を閉じていた。閉じても同じだった。右目だけが白い壁に覆われている。左目を開けると、フロントガラスの左半分だけが見える。右半分は、白い靄の中に沈んでいる。
「どのくらい見えない」
早乙女がハンドルを切りながら訊いた。信号待ちではなく、走行中に。視線は前から外さない。
「右目が完全に飛んでいます。左は正常です」
「Tier2のときは両方の端がちらついた程度だったろ」
「これは右目だけが完全に遮断されている。質が違います」
首都高の合流。車線変更のたびに車体が揺れる。右こめかみの奥で、まだ高周波が残っていた。金属の振動。Tier2の反動は鈍い重さだった。数日かけてゆっくり抜ける鈍痛。これは鋭い。尖った痛みが脈拍に合わせて明滅する。
鞄からチューブを取り出した。有坂の【回復軟膏精製】で作られた軟膏。ミントとユーカリに似た匂いが、車内に広がる。右こめかみに塗ると、冷たい感触が皮膚に染み込んだ。痛みが少しだけ和らぐ。少しだけ。
「何が起きた」
「桐生が口頭で約束しました。除外された五件を監査対象に戻す、と。その瞬間、桐生の発言が文字列になった」
「文字列」
「四色ではない。透明な青白い光。契約条項の構造体が空中に浮かんだ。第一条、履行義務。第二条、履行期限。第三条、違反時の効果。条文が、桐生の言葉の上に重なった」
早乙女は三秒黙った。信号が赤に変わり、ブレーキを踏む。停車の衝撃が、右こめかみに響く。
「桐生の約束が、書類になったのか」
「はい。Tier1は書類の色を読む。Tier2はダンジョンの仕様書を読む。Tier3は——書類がないところに、書類を作る」
信号が変わった。車が動き出す。窓の外を八月の新宿が流れていく。左目でだけ見る風景。ビルの谷間。歩道の人影。タクシーの列。全てが半分だけ見えている。
「桐生は気づいたのか」
「何かが起きたことには気づいています。わたしが倒れかけた。テーブルに手をついた。桐生が椅子から腰を浮かせた。『大丈夫ですか』と言った。——偽りの心配ではなかった。あの瞬間、桐生は何が起きたかを理解しようとしていた」
「何て訊かれた」
「『今、何をしましたか』と」
「答えたのか」
「答えていません。退席しました」
早乙女がバックミラーに視線を走らせた。追尾の確認。元刑事の習慣が、車の運転にも出る。
「桐生は頭がいい。自分の約束が何かに拘束されたことを、遅かれ早かれ感じ取る」
「はい。だから時間が必要です。桐生が約束を履行する前に、鶴岡が桐生の約束を潰す。そのとき鶴岡の声が紙の上に残る。——それが狙いです」
「桐生の約束が潰されることを、織り込んでるのか」
「織り込んでいます」
早乙女が信号待ちで、ハンドルから片手を離した。フロントガラスの向こうに、西新宿の歩道橋が見えている。左目だけの景色。人が歩いている。日傘が揺れている。日常の風景が、片目で見ると奥行きを失う。
「それにしても——約束を書類にするスキルか」
早乙女の声が低くなった。
「相手が自分で口にした約束が拘束されるなら、使い方によっては、相当えげつないぞ」
「分かっています」
「分かってるなら、いい。でも忘れるな。あんたのスキルは、書類を読むためのものだった。書類を作るスキルは、別物だ」
信号が変わった。車が動き出す。
*
第三課に着いたのは午後四時半だった。
蓮田が入口で立っていた。腕を組んで、ドア枠にもたれて。わたしの顔を見た瞬間、腕が下りた。
「ひでえ面だな」
「すみません」
「謝るな。座れ」
デスクの椅子に座った。有坂が立ち上がり、給湯室に消えた。二分後、ほうじ茶のマグカップが手元に置かれた。温かい。茶葉の香りが、鼻腔を撫でる。湯気が白い筋を描いて消える。
「報告します」
蓮田が椅子を引き寄せた。キャスターが床の上を滑る音。早乙女が横に立つ。有坂が少し離れた位置に座り、ノートを開いた。
「桐生鷹志と面談しました。新宿パークハイアットの四十一階ラウンジ。桐生はわたしのスキルについて直接質問してきました。『書類の色が視えるだけですか』と。四月の面談以来、初めてスキルに直接触れてきた」
蓮田の目が細くなった。空のマグカップを回している。指先だけで。
「それに対して、わたしは外部監査の除外五件を監査対象に戻す約束を求めました。桐生はこれを受け入れ、口頭で約束した。その瞬間に」
ほうじ茶を一口飲んだ。喉が乾いていた。温かい液体が食道を通る感触。器の陶器が唇に冷たい。
「Tier3が発動しました」
蓮田が息を止めた。普段は鼻から息を吐くこの男が、完全に呼吸を止めている。三秒。
「桐生の口頭約束が、わたしの視界の中で、契約条項の形になりました。透明な青白い文字列。条文の体裁で空中に浮いた」
「条文」
「はい。第一条から第三条まで。履行義務、履行期限、違反時の効果。桐生の『五件を監査対象に戻す』という発言が、契約書として固定された。——これは、破ったとき、何かが起きる構造です」
「何が起きる」
「まだ分かりません。Tier3の効果の全容は、使ってみないと」
蓮田が天井を見上げた。五秒。十秒。
「そして、反動が右目の視界喪失」
「はい。Tier2の反動は右こめかみの鈍痛と、両目の視界端のちらつきでした。回復に一ヶ月かかった。Tier3は、右目の視界が完全に消えている」
有坂がペンを止めた。ノートを膝の上に置いたまま。小さな声。
「宇津木さん、右目、今も見えないんですか」
「見えません。有坂さんの軟膏のおかげで、痛みは収まりつつあります。視界の回復には時間がかかると思います」
有坂の唇が薄く動いた。何か言いかけて、飲み込んだ。ロッカーに走り、予備の軟膏チューブを持ってきた。小さな足音。スニーカーのゴム底が床に擦れる音。
「追加で塗ってください」
「ありがとうございます」
チューブの蓋を開ける。ミントの匂い。右こめかみに塗り直す。冷感が広がり、高周波の残響がわずかに遠ざかる。
蓮田がマグカップを置いた。今度は音が鳴った。コトン、と小さく。
「使える回数は」
「今日のような反動が毎回出るなら、一日一回が限界です。連続使用は不可能。それ以上は——」
言葉を切った。蓮田も訊かなかった。
失明。その二文字が、空気の中に浮かんでいた。声にはならない。だが四人全員が、その可能性を理解していた。右目が戻らなければ。あるいは、次の使用で左目も。
早乙女がポケットに手を入れた。便箋の感触を確かめるように。それから手を引き抜き、わたしの右こめかみに視線を向けた。
「回復するまで、使うな」
「はい」
「返事が軽い」
「軽くありません。使わない理由がある間は、使いません」
早乙女は視線を逸らさなかった。三秒。それから、腕を組み、壁にもたれた。
蓮田が立ち上がった。窓の方に歩く。ブラインドの隙間から外を見る。八月の午後。まだ明るい。隣のビルの壁面に、ガラスの反射光が跳ねている。蝉が一匹、窓の近くで鳴いている。
「代価は、Tier2の比ではない」
振り返らずに言った。
「だが、お前が手に入れたものも、Tier2の比ではない。桐生は約束した。約束は書類になった。書類になった以上、お前の土俵だ」
わたしは左目で六枚の付箋を見た。『桐』『黒』『雷』『水』『乃』『鶴』。右目では見えない。白い壁の向こうに、黄色い紙の色がぼんやりと滲んでいる。
右目の白い壁の向こうに、蛍光灯のちらつきがかすかに透けていた。白い靄の中で、明滅する光が遠い星のように見える。
ただし、代価は。
Tier2の比ではない。




