第42話「言質」
桐生からの連絡は、翌週の月曜日に来た。
八月十一日。わたしの業務用携帯が鳴ったのは、昼過ぎの十二時四十分だった。第三課のデスクで弁当の蓋を閉じたところだった。表示は非通知。
「お久しぶりです、宇津木さん」
声を聞いた瞬間、指が止まった。四月の大会議室以来。四ヶ月ぶりの桐生鷹志の声。穏やかで、丁寧で、どこか楽しげな声。
「桐生さん。お電話をいただけるとは」
「率直にお話ししたいことがあります。お会いできませんか。二人きりで」
蓮田が向かいのデスクから目を上げた。わたしの表情を見て、マグカップを置いた。音を立てずに。
「場所は」
「新宿のパークハイアット。四十一階のラウンジ。明日の午後三時でいかがですか」
「伺います」
電話を切った。蓮田が何も言わずにこちらを見ている。
「桐生からです。明日。新宿パークハイアット。二人きりで会いたいと」
「行くな」
蓮田の声は低かった。
「行きます」
「理由を聞こう」
「桐生がこちらに連絡してきた。向こうから動いた。それは、こちらの照会が効いている証拠です。追加照会の回答で黒が混じっていた。桐生は嘘をついた。嘘をついた人間が、嘘をついた相手に会いに来る。理由は一つしかない。——交渉です」
蓮田は五秒ほど黙った。マグカップを手に取り、一口飲み、また置いた。
「早乙女を外に待機させろ。連絡が途絶えたら突入できる距離に」
「分かりました」
*
八月十二日、火曜日。午後二時四十五分。
新宿パークハイアット。西新宿の高層ビル群を見下ろす四十一階。ラウンジの窓際席。
空調が効いた空間に、紅茶の匂いが漂っている。昼下がりの客は少ない。隣のテーブルとの距離は十分にある。
桐生はすでに座っていた。紺のスーツ。ネクタイはグレーのストライプ。コーヒーカップが手元にある。
四ヶ月ぶりの桐生鷹志。三十五歳。百八十三センチ。S級探索者。
四月の大会議室で向かい合ったときと、何かが違った。笑みは同じ。穏やかで、人当たりがよく、好感の持てる笑み。だがその下に、あのとき感じなかった密度がある。S級の気配。空気の質がわずかに変わる。テーブルを挟んで座っているだけで、肌の表面がかすかにざらつく。
「わざわざお越しいただいてありがとうございます。どうぞ」
「失礼します」
向かいの椅子に座った。ウェイターが紅茶を持ってくる。アールグレイの柑橘の匂い。カップの縁が唇に触れる。熱い。
桐生はしばらく窓の外を見ていた。四十一階からの眺望。新宿の高層ビルが午後の光を受けて並んでいる。
「宇津木さん。率直に伺います」
桐生がこちらを向いた。笑みが薄くなった。完全に消えたわけではない。だが、四月のペン三回転がしを看破したときの目に近い。観察している。
「あなたのスキル——書類の色が視えるだけですか?」
心臓が一拍、強く打った。初めてだった。桐生がスキルについて直接質問してくるのは。四月の面談では、スキルの存在に気づいていながら、言及を避けていた。今回は、正面から訊いてきた。
「わたしのスキルについて、何か懸念がおありですか」
「懸念というほどではありません。ただ、宇津木さんとお話しするたびに、わたしの想定を超える結果が出る。書類を読むだけのスキルなら、ここまでの成果は出ないはずです」
桐生の言葉に【真贋鑑定】を走らせる。「懸念というほどではありません」——赤。嘘。懸念はある。「想定を超える結果」——青。本当に想定を超えている。桐生は、わたしのスキルの射程を測りかねている。
「お答えする前に、一つ、お願いがあります」
「どうぞ」
「雷電の外部監査。除外された五件を、監査対象に戻してください」
桐生の指が、コーヒーカップの取っ手の上で止まった。二秒。
「なぜ、わたしがそれを約束しなければ」
「あなたには全権委任がある。鶴岡代表の代理として、その約束をする権限がお有りです。先週の照会回答でそう書かれていた」
桐生の目が細くなった。笑みとは違う。査定している。わたしの言葉の裏を、読もうとしている。
「面白い交渉ですね、宇津木さん」
「交渉ではありません。確認です」
「確認、ですか」
桐生はコーヒーカップを持ち上げた。一口飲む。カップをソーサーに戻す。動作が滑らかで、無駄がない。S級探索者の身体制御。日常の動作にまでそれが染みている。窓の外では、西新宿のビル群が午後の逆光に沈んでいる。
「いいでしょう。五件を監査対象に戻します。約束しますよ」
その瞬間——。
視界が、割れた。
桐生の声が、空気の中に残っている。音ではない。文字。桐生が発した言葉が、透明な文字列となって、テーブルの上に浮かんでいる。
四色ではない。
青白い光。透明で、薄く、冷たい光。契約条項の構造体。桐生の「五件を監査対象に戻します」という発言が、条文の体裁をとって、宙に刻まれている。第一条、履行義務。第二条、履行期限。第三条、違反時の効果——。
こめかみの奥で、金属板を引き裂くような高周波が走った。
右目の視界が白く飛んだ。左半分ではない。右目だけ。白い壁が落ちてくるように、視界の右側が消えた。残った左目で、テーブルの上の青白い文字列を見ている。桐生の顔は見えない。右側に座っているから。
頭が割れる。比喩ではない。頭蓋骨の内側を、何かが膨張している。Tier2の反動とは質が違った。Tier2は鈍痛だった。これは、鋭い。尖った何かが、脳の奥から外に向かって貫通しようとしている。
手がテーブルの縁を掴んだ。紅茶のカップが揺れた。中身が溢れる寸前で止まる。
桐生の声が聞こえた。遠い。
「宇津木さん?」
青白い文字列が、ゆっくりと薄くなっていく。桐生の「約束」が、契約条項の形で固定された。消えたのではない。視えなくなっただけ。そこに在る。桐生の言葉が、文字通り、「書類」になった。
Tier3。言質拘束。
口頭の約束が、書類になる。書いた人間の意思と無関係に。書類になった約束は、破れない。破ったとき、何かが起きる。何が起きるかは、まだ分からない。
「大丈夫です。少し、体調が」
声が掠れていた。右目の視界はまだ戻らない。白い壁の向こうに、かすかに桐生の輪郭が見える。
「桐生さん。今の約束、録音しております。では失礼します」
立ち上がった。膝が震えている。テーブルに手をついて、体を支えた。桐生がこちらを見ている。左目の端に、桐生の表情が映る。四月のペン三回転がしを看破した目。あの目が、今、もっと深いところを見ている。
「宇津木さん。——今、何をしましたか」
答えなかった。背を向けて、ラウンジの出口に歩く。一歩ごとに、こめかみの奥で高周波が脈打つ。廊下の壁に手をつく。エレベーターのボタンを押す。指先が白い。
四十一階から一階へ。エレベーターの中で壁にもたれた。金属の壁が冷たい。背中の汗が冷えていく。
ロビーを出た瞬間、足が止まった。壁にもたれる。八月の熱気が顔を包む。アスファルトの照り返し。蝉の声が遠い。
早乙女の車が路肩に停まっていた。運転席のドアが開く。
「顔色最悪。乗れ」
助手席に滑り込んだ。シートベルトを締める手が震えている。ドアを閉めた瞬間、車内の空気が肌に張りついた。エアコンの冷気。汗が一気に冷える。
「Tier3が、出ました」
早乙女がハンドルを握ったまま、一瞬だけこちらを見た。そして何も訊かずに、車を発進させた。
桐生は約束した。
そして、その約束は、もう、破れない。




