第41話「幽霊案件」
芝山は電話一本で動いた。
八月一日、金曜日。わたしと早乙女がダンジョン庁の第三審査棟を訪ねると、芝山幸雄は三階の会議室のテーブルに書類を広げていた。窓の外には、ビルの谷間に空が細く見えている。霞ヶ関の夏。エアコンが低い音を立てていたが、会議室の空気にはコピー機のトナーの匂いが混じっている。
「追加照会の件、筋は通せます。ただ、照会内容によっては庁内の決裁に時間がかかる」
芝山の声は穏やかだった。四十五歳。監察官の肩書にふさわしい落ち着き。だが保管庫閲覧のときと同じ、視線の奥にある計算が見える。協力する。だが、手ぶらでは帰さない。
「質問内容は絞っています。再保険取引の決裁フロー。法令上、この種の照会に対する回答義務は代表取締役個人にあります。副代表への委任では足りない」
「保険業法第百二十八条か。報告徴求の正式手続きとは違うが、ダンジョン庁設置法に基づく定期監査の追加照会として出せば、同等の拘束力がある」
芝山は書類の一枚を指で弾いた。爪がコピー用紙を叩く乾いた音。
「条件が一つあります」
「伺います」
「回答書が届いたら、原本の閲覧をこちらにも許可してください。庁としての記録が必要なので」
予想していた。芝山は情報の事前共有を求める。冤罪編のときと同じ構造。蓮田が「管理対象だ」と言った言葉の意味が、ここにある。
「承知しました」
芝山が頷いた。テーブルの上の書類を揃える。指の動きが正確で、無駄がない。
「では、来週月曜の朝に照会文書を発行します。雷電グループ宛。質問は三項目。一つ目、再保険引受の最終決裁者。二つ目、決裁権限の委任の範囲と書面。三つ目、過去五年間の委任状一覧」
「ありがとうございます」
早乙女が席を立った。わたしも続く。芝山が見送りの代わりに、一言。
「宇津木さん。この照会で鶴岡が出てこなかった場合のことも、考えておいてください」
その声は穏やかだったが、穏やかさの下に別の意味がある。芝山は知っている。鶴岡が出てこないことを、すでに予測している。
廊下に出た。ダンジョン庁のリノリウムの床。靴音が反響する。窓の外は八月の日差し。汗が背中を伝う。地下鉄の入口に向かう階段を降りながら、早乙女が小声で言った。
「芝山、やっぱり一筋縄じゃいかないな」
「分かっています」
「使えるかどうかの話じゃない。あの男が条件を出すたびに、あたしたちの情報があっちに流れるんだ。冤罪編でもそうだった。保管庫の閲覧結果、全部筒抜けだろ」
「流す分はコントロールします。芝山に見せてもいい情報と、見せてはいけない情報を分ける」
早乙女は何も言わなかった。地下鉄の改札をくぐる。丸ノ内線のホームに降りると、生温い風が、トンネルの奥から吹き付けてきた。地下鉄の鉄と油の匂い。
*
回答は五日で届いた。
八月六日、水曜日。第三課のデスクに、ダンジョン庁経由で転送された封書が置かれていた。
差出人は「雷電グループホールディングス株式会社 法務部」。料金後納のスタンプ。厚みは薄い。
開封する。A4の回答書。四枚。表紙、回答本文二枚、添付一枚。
回答書の署名欄に目を走らせた。
「副代表取締役 桐生鷹志」。
鶴岡の署名ではなかった。
「桐生が出てきた」
早乙女が後ろから覗き込んだ。
「『代表取締役 鶴岡武彦 代理 副代表取締役 桐生鷹志』。代理権限の委任状が添付されています」
添付の委任状を見る。B5サイズ。「本照会に関する一切の回答権限を、副代表取締役 桐生鷹志に委任する。代表取締役 鶴岡武彦」。印鑑は角印と丸印の二つ。日付は八月四日。紙質は普通のコピー用紙ではなく、少し厚手の上質紙だった。
委任状に目を落とした。——本物だった。鶴岡本人の意思で発行された、正式な委任状。印鑑も真正。偽造ではない。
だが、回答書本文に目を移す。
質問三項目に対する回答。第一項、「再保険引受の最終決裁者は副代表取締役」。第二項、「代表取締役より副代表取締役に対し、包括的な業務委任を行っている」。第三項、「委任状一覧は別途準備中。二週間以内に追送する」。
青と黒が入り混じっている。
「最終決裁者は副代表取締役」——黒。意図的な隠蔽。実際の決裁は鶴岡が行っているのに、桐生が全ての責任を負う形に整えられている。
「包括的な業務委任」——青。事実。鶴岡は、本当に桐生に包括委任を出している。ただし、それは鶴岡が手を引いているからではない。鶴岡が桐生を署名の盾に使っている構造の裏付けだった。
「委任状一覧は別途準備中」——黒。二週間の猶予は、時間稼ぎ。出すつもりがない。
「どうだ」
蓮田が椅子をこちらに向けた。マグカップが手元にある。中身はブラック。今朝は自分で淹れたらしい。
「委任状は本物です。青。だが、回答書本文に黒が混じっている。桐生は嘘をついています。決裁構造を偽装し、鶴岡の関与を隠蔽している」
「要するに、鶴岡は出てこなかった」
「出てきませんでした。予想通りに桐生を盾にした」
蓮田が腕を組んだ。首を傾ける。天井を見上げている。
「だが、委任状は本物なんだろう」
「本物です」
「なら、それ自体が収穫だ」
早乙女が反応した。
「収穫? 鶴岡が逃げたのに?」
「逃げた。だが、逃げるために委任状を出した。委任状が存在するということは、桐生の行為は法的に鶴岡の行為と等価になる。民法百九条。代理人の行為は本人に帰属する」
蓮田が手を止めた。
「桐生が嘘をついた回答書も、法的には鶴岡が嘘をついたのと同じ効果を持つ。委任状が逃げ道のつもりなら、その逃げ道が逆に首輪になる」
有坂がノートにペンを走らせている。今日は、午後一時から出社していた。嘱託のシフト。膝の上のノートに、会話の流れを一語も漏らさず記録している。小さな丸い文字。
「鶴岡は出てこなかった。だが、出てこなかったことが、一枚の書類を生んだ」
わたしは委任状のコピーを取り、デスクの付箋の横に置いた。青い委任状。六枚の付箋。そして黒が混じった回答書。
鶴岡は影に留まった。しかし影から伸びた手が、委任状という形で、初めて紙の上に残った。
この男を引きずり出すには、もう一段、圧力が必要になる。桐生を経由するのではなく、鶴岡本人が声を上げざるを得ない状況を——。
「次の手を考えろ」
蓮田がコーヒーを一口飲んだ。渋い顔をして、マグカップを回す。
「今度は、委任で逃げられない照会を出す。——いや」
蓮田が言葉を切った。椅子に深く座り直す。
「照会じゃない。桐生を直接動かせ。桐生が自分の口で約束したことを、鶴岡が潰さざるを得ない状況を作る。そうすれば、鶴岡が自分で声を出す」
桐生の口から約束を引き出す。その約束を、鶴岡が上から否定する。否定した瞬間に、鶴岡の声が紙の上に残る。
「桐生に会います」
早乙女がこちらを見た。腕を組んだまま、視線だけがこちらを追っている。
「行くな、とは言わない。——でも、一人では行かせない」
「承知してます」
空調のファンが、低い音を立てている。八月六日の第三課。窓から入る西陽が、回答書の表面を照らしていた。青い委任状と、黒が混じった嘘。二枚の紙がデスクの上で重なっている。




