第40話「署名のない書類」
鶴岡武彦の名前を、わたしは丸一日かけて探した。
七月三十一日、木曜日。朝八時に第三課に入り、デスクにコーヒーの缶を置き、パソコンの画面と向き合った。
雷電グループの公開情報。有価証券報告書。取締役会議事録の要旨。プレスリリース。ダンジョン庁への届出書類の開示版。探索者協会の認定台帳。
鶴岡武彦の名前は、「代表取締役」の肩書欄にしか存在しなかった。
有価証券報告書の役員報酬欄に鶴岡の名前がある。数字は開示されていない。取締役会議事録の要旨には「議長:代表取締役 鶴岡武彦」の定型文が並ぶ。だが、発言記録がない。議事録の体裁として、議長の発言は記録しない方式を採っている。
署名書類。ゼロ。
ダンジョン庁への届出は、桐生の名前で出されている。プレスリリースの文末に「代表取締役」の記載はあるが、問い合わせ先は広報部。写真なし。インタビューなし。業界紙への寄稿なし。
十一時半。早乙女が出社してきた。今日は午前中にダンジョン庁で別件の打ち合わせがあった。
「鶴岡の顔、見つかった?」
「写真が一枚もありません」
早乙女がデスクの前で立ち止まった。ジャケットを椅子の背にかける。
「上場企業の代表で写真なしって、あり得るのか」
「雷電グループの持株会社は非上場です。上場しているのは子会社の雷電クランだけで、そちらの代表は桐生です。持株会社は有価証券報告書の提出義務があるが、写真の掲載義務はない」
「法的には問題ないってことか」
「ないです。ただ、これほど公の場に出ない代表取締役は珍しい」
蓮田が昨日の登記簿から顔を上げた。マグカップには、何も入っていない。空のマグカップを手で回している。
「珍しいんじゃない。意図的だ。桐生は表の顔、鶴岡は影。ダンジョン業界でよくある構造ではある。S級の副代表が営業と戦闘を担当し、代表は資金と政治を裏で動かす。だが、鶴岡の場合は度が過ぎてる。普通なら、業界団体の懇親会くらいは出る。鶴岡はそれすらない」
「課長はこの業界、長いですよね」
「二十五年だ。鶴岡の名前は聞いたことがある。十年以上前に、業界の再編期に一度だけ顔を見せたらしい。それ以降は、人前に出ていない」
蓮田が空のマグカップを置いた。
「銀行時代にも、似た人種はいた。融資の審査で、実質的な意思決定者の名前が一度も書類に出てこない案件があった。その手の人間は、自分の痕跡を消すことにエネルギーの大半を使っている」
*
午後二時。有坂が出社した。
今日は嘱託の勤務日。午後一時からのシフトだが、少し遅れた。手に紙袋を持っている。コンビニの袋。中身はコピー用紙。
「すみません、遅れました。あの、蓮田さんに頼まれていた、雷電グループの株主総会招集通知の過去五年分、国会図書館でコピーしてきました」
「ご苦労。置いとけ」
有坂がコピーの束をデスクに置いた。五年分の招集通知。定時株主総会の議案と参考書類。
わたしはそこから、取締役選任議案のページを抜き出した。取締役候補者の経歴。鶴岡武彦の欄。
経歴は二行だった。「昭和三十九年生まれ。平成十四年当社設立、代表取締役就任」。以上。学歴なし。前職なし。出身地の記載すらない。
二行。六十二年の人生が、二行に圧縮されている。
「この人、どこから来たか分からないですね」
有坂が小さな声で言った。ノートを膝の上に置き、ペンを持っている。
「分からない。だから探す」
有坂はノートに「鶴岡武彦・経歴不明」と書いた。小さな字。几帳面な丸い文字。
*
十六時十二分。
蓮田のパソコンのメール通知音が鳴った。蓮田が画面を見て、眉を上げた。わずかに。この男の表情が動くのは珍しい。
「宇津木。お前宛じゃないが、読め」
画面を回す。メールの送信元は、フリーメールのアドレス。件名なし。本文には一行だけ。
「添付参照」
添付ファイルが一つ。PDF。ファイル名は「rdn_internal_memo_2024.pdf」。
氷室からの匿名転送メール。アドレスは以前と同じものだった。蓮田の個人メールに送られている。第三課の公式アドレスではなく。
PDFを開いた。
雷電グループの社内通達の写し。日付は二年前。二〇二四年五月十五日付。
「社外向け文書の代表者名記載について(変更)」
本文は短い。要旨はこうだった。「鶴岡代表の指示により、今後、社外向け文書における代表者名の記載は、原則として副代表名に統一する。ダンジョン庁届出、保険契約書面、プレスリリース、業界団体への提出物を含む。ただし法令上、代表取締役名が義務付けられる書面を除く」
二年前。二〇二四年の五月。鶴岡は、二年前から意図的に自分の名前を社外文書から消している。
「意図的ですか」
有坂がノートにペンを走らせながら言った。
「意図的です。この社内通達自体が証拠です。名前を消すことを、通達という形で組織的に実行している」
早乙女が腕を組んだ。椅子の背にもたれ、天井を見上げている。
「あの転送メール、氷室からだよな」
「おそらく。匿名の条件は維持されています。本人に確認はできない」
「氷室がこの通達を持っているということは、三豊の企画部主任が雷電の社内通達を入手する経路があるってことだ」
「氷室は三豊本社にいます。雷電との業務連携の中で、社内通達が共有される場面はあり得る。再保険の引受先として、相手方の社内ルール変更は確認対象ですから」
蓮田がメールを閉じた。
「これで、鶴岡が名前を消している理由は確定だ。『社外向け文書への代表名記載は副代表名に統一する』——つまり、桐生の名前で全てを処理しろという指示だ。鶴岡は、桐生を署名の盾に使っている」
書類に名前を残さない人間がいる。わたしのスキルは、書類の上の嘘を視るもの。書類がなければ、視えない。
それは、このスキルの根本的な限界だった。
蓮田が椅子から立ち上がった。窓の方に歩く。ブラインドの隙間から外を覗く。七月の夕方。まだ明るい。隣のビルの壁面に、ガラスの反射光が跳ねている。
「なら、書類を書かせろ。鶴岡が無視できない状況を作って、あの男の筆を紙の上に降ろさせるんだ」
「方法は一つだけ考えています。ダンジョン庁からの正式照会。照会への回答義務は代表取締役にある。法令上、副代表への委任では足りない類の照会を出させれば」
「芝山か」
「芝山です」
蓮田が振り返った。表情は変わらない。だが目の奥に、かすかな警戒がある。冤罪編で芝山に条件付き協力を求めたとき、蓮田は「芝山を信じすぎるな」と言った。あの言葉が、まだ有効だという顔をしている。
「芝山を使うなら、覚悟しろ。あの男は協力する。だが、協力の対価を必ず求めてくる。情報の事前共有。調査結果の報告。あいつの中では、お前は協力者であると同時に、管理対象だ」
「承知しています」
「承知してるなら、行け。——ただし、一人で行くな。早乙女を連れろ」
早乙女が椅子から立ち上がった。何も言わず、ジャケットを椅子の背から取った。
有坂がノートを閉じた。「鶴岡武彦」の名前が、小さな丸い文字で三ページ目に書かれている。経歴二行の男。通達一枚で名前を消した男。
窓の外で、蝉が一匹だけ鳴いている。七月の終わり。ビルの隙間から差し込む西陽が、付箋の『鶴』を橙色に染めていた。
影に名前を書かせる方法は、一つしかない。
影を、光の下に引きずり出す。




