第39話「監査報告」
河村からの電話は、昼休みのコンビニの前で取った。
七月三十日、水曜日。三豊ビル北館の一階から出ると、アスファルトに溜まった熱気が足首を包む。自販機で買ったペットボトルの麦茶が、持った指先に結露を伝えてくる。
「宇津木さん、外部監査の中間報告、もう見ましたか」
「まだです。公開されたんですか」
「昨日の午後に。ダンジョン業界向けのIR情報サービスに載ってます。ただ、おかしいんです」
河村葵。探索ジャーナルの記者。三十一歳。声はいつもの落ち着いたトーンだが、語尾に力がある。職業的な直感が、何かを掴んでいるときの話し方だった。
「中間報告の結論は『現時点で重大なコンプライアンス違反は認められない』。予想通りです。ただ、報告書の添付資料に調査対象一覧というのがあって、見ていただきたいんです」
「写しを送れますか」
「記者として入手したものですから、直接お渡しします。四谷でどうですか。十五時」
電話を切った。コンビニの自動ドアが開く音。昼休みのビジネスマンが次々に入っていく。七月の日差しが、首の後ろを焼いている。
*
四谷三丁目のドトール。二階席。窓際のテーブルにA4の封筒が置かれた。
河村は向かいに座り、ブレンドを一口飲んで、封筒をこちらに押した。
「全二十七ページ。中間報告書の本文と、添付三点。お渡しするのは添付の『調査対象一覧』だけです。本文は公開情報なのでご自身で」
「ありがとうございます」
封筒を開く。A4コピー用紙、五枚。調査対象一覧。二十三の案件が行番号付きで並んでいる。
監査法人「青葉リスクコンサルティング」の書式。案件名、調査日、結果概要、備考欄。フォントはMS明朝の十ポイント。業界の定型書式だった。
河村のブレンドの匂いが、テーブルを挟んで漂ってくる。安い店のコーヒーの、少し焦げた匂い。
わたしは眼鏡のフレームに触れた。指先が冷えている。店内の空調が効きすぎていた。
報告書に目を通した。スキルが自然に走る。
報告書本体は嘘をついていない。ヘッダも監査法人名も日付も文書番号も、本文の調査結果も——すべて清潔な青。「異常な取引パターンは確認されなかった」。「決裁プロセスは適正と判断する」。正直な報告書だった。
だが添付の「調査対象一覧」に目を移したとき、色が変わった。
二十三件の案件のうち、十八件は問題ない。
残りの五件——第七行、第十一行、第十五行、第十九行、第二十二行——の備考欄だけが黄に染まっている。
「資料不備のため調査対象外」。
五行とも、同じ文言。同じ黄色。
「宇津木さん?」
河村が声をかけた。わたしの手が止まったのを見たのだろう。
「五件、除外されています。調査対象二十三件のうち五件が、備考欄に『資料不備のため調査対象外』と記載されている」
「やっぱり。あたしもそこが引っかかったんです。二十三件中五件が資料不備って、比率が異常でしょう」
河村はペンだこのある指でカップを回した。記者としての理解が速い。
「異常です。だが、問題は比率ではありません」
「というと」
「この五件の備考欄は黄色です」
河村が一瞬だけ手を止めた。わたしのスキルが書類の色を読むことを、この記者は知っている。六月の記事の取材過程で、その能力の概要は伝えてあった。
「黄。書いた人は嘘をついていない。でも、事実でもない」
「その通りです。監査法人の担当者は、本当に『資料がなかった』と信じている。提出されるべき資料が提出されなかったことを、素直に記録しただけです。嘘ではない。だが、真実でもない」
つまり——資料を隠した人間が、別にいる。
監査法人は、渡された材料だけで仕事をした。材料を選別したのは監査法人ではない。監査法人に提出する資料を管理しているのは、被監査者側。雷電グループの管理部門。
「資料を出さなかったのは雷電側ですか」
「はい。そしてこの五件は、わたしたちが三豊の内部で特定した二十三件のうちの、最も金額が大きい案件と重なる可能性が高い」
河村がメモ帳を開いた。記者の手帳。背表紙が擦り切れている。万年筆のインクが指に付いている。
「五件の案件番号を控えさせてもらえますか」
「こちらから共有するのは難しい。ただ、公開されている監査報告書の添付資料に書かれている案件番号は、河村さんの取材の範囲内です」
河村が小さく笑った。記者と情報源の距離感。互いに踏み越えない線がある。
「分かりました。自分で拾います。もう一つ確認させてください。この監査法人、青葉リスクコンサルティング。雷電との取引履歴は」
「これから調べます」
「あたしも並行で調べます。何か分かったら」
「連絡します」
河村はコーヒーを飲み干し、立ち上がった。記者証を首から下げたまま。窓から入る午後の光が、短い黒髪を照らしている。
「記事にするには、もう少し裏が要ります。ただ、この添付資料の存在自体は公開情報の一部ですから、宇津木さんの方で使っていただいて構いません」
「助かります」
*
第三課に戻ると、蓮田がデスクで登記簿のコピーを読んでいた。
有坂は不在。今日は嘱託の出勤日ではない。早乙女は隣のデスクで、ダンジョン庁のウェブサイトを画面に映している。
「課長。外部監査の中間報告書の添付を入手しました。五件が監査対象から除外されています」
蓮田が紙から目を上げた。
「除外の理由は」
「資料不備。ただし、この記述は黄です。監査法人は本当に資料がなかったと信じている」
「資料を出さなかった奴がいる」
「はい」
蓮田が登記簿のコピーをデスクに置いた。トントン、と指先で紙を叩く。二回。
「監査法人への提出資料を管理しているのは、雷電グループの管理本部だ。管理本部長は取締役兼任で、取締役会の決議で任命される。取締役会の議長は」
「代表取締役」
「鶴岡武彦」
六枚の付箋が、デスクの端で並んでいる。『桐』『黒』『雷』『水』『乃』『鶴』。六枚目の『鶴』に、視線が止まる。
「管理本部が資料を隠した。管理本部の上には鶴岡がいる。知らないはずがない」
「だが『鶴岡が指示した』という書類は、どこにもない。管理本部長が自分の判断でやったことにもできる。鶴岡本人の関与を証明する紙が、存在しない。いつもの構造だ」
書類のない男。その輪郭がまた一段、明瞭になった。輪郭だけが鮮明で、中身が見えない。
早乙女が椅子を回してこちらを向いた。
「除外された五件の中身は特定できるのか」
「三豊側で保有している再保険引受記録と照合すれば、案件番号が一致するはずです」
「やろう」
早乙女が立ち上がった。共有サーバにアクセスするために自分のデスクに戻る。靴底が床を叩く音。乾いた、テンポのいい足音。
蓮田がマグカップに手を伸ばした。中身は空だった。伸ばした手が止まり、引っ込む。代わりに、鼻で短く息を吐く。
「お前の次の手は」
「鶴岡に、書類を書かせます」
「書類のない男に、どうやって」
「方法は、これから考えます」
蓮田が一瞬だけ、口の端を上げた。ぼやきではない。
「考えろ。俺は登記簿を読んでる。青葉リスクコンサルティングの株主構成に、ちょっと面白いものが見えてきた」
詳細は言わない。まだ確認中なのだろう。この男は、確認が終わるまで口を開かない。二十五年のベテランが築いた流儀。
わたしはデスクに座り直した。空調の乾いた風が、首筋を撫でる。窓の外は七月の曇り空。蝉の声が遠い。
調査対象一覧の紙面で、五つの黄色い行が並んでいる。嘘ではない記述。嘘ではないからこそ、監査法人には罪がない。罪があるのは、正しく調べるための材料を最初から抜いた人間。
監査は正しく行われた。ただし、正しく行うための資料が、正しくなかった。




