第38話「あと三歩」
便箋は一枚だった。
警視庁人事課からの通知。「懲戒処分の訂正について」。B5サイズの薄い紙に、事務的な文面が印刷されている。
七月二十八日、月曜日。朝。早乙女が出社すると、第三課のデスクの上に封書が届いていた。茶色い事務封筒。差出人は「警視庁総務部人事課」。切手ではなく料金後納のスタンプ。
早乙女は封を開け、便箋を広げ、読んだ。三十秒ほど。表情が変わらない。読み終えると、便箋を二つに折り、さらに四つに折り、カーゴパンツのポケットに入れた。
「ありがとう、は、言わないよ」
わたしはデスクでコーヒーを飲んでいた。自販機の缶。いつもの微糖。朝の第三課。空調の低い唸り。
「知ってます」
早乙女が椅子に座った。いつもの椅子。いつもの姿勢。足を組まず、背筋を立てて。ただ、ポケットに入れた便箋の上に、一度だけ右手を当てた。確認するように。紙がそこにあることを確かめるように。
それだけだった。三年分の冤罪が紙一枚で消える。儀式も感慨もなく、カーゴパンツのポケットに収まった。
蓮田がコーヒーを淹れに給湯室に立った。戻ってきたとき、マグカップが二つ。一つを早乙女のデスクに置いた。何も言わずに。早乙女も何も言わずに受け取った。
湯気が立っている。有坂が先日買ってきた豆の匂い。深煎りの甘い香り。朝の第三課に、その匂いだけが静かに広がっていた。
蓮田が自分のデスクに戻り、一口飲んで目を閉じた。
「よし」
一語。それが、蓮田なりの祝辞だった。
*
午後一時。有坂が出社して、四人が揃った。
七月の東京。窓の外では蝉が鳴いている。三豊ビル北館の十二階まで届く声は少ないが、風向きによっては遠い蝉時雨が空調の音に混じる。
わたしはホワイトボードの前に立った。第三課に備品として置かれている小さなホワイトボード。蓮田が「会議室を予約するのが面倒だ」と言って、どこからか持ってきたものだった。
「整理します。ここまでの経緯と、これからの課題」
マーカーのキャップを外す。インクの揮発臭が鼻をつく。黒いペン先がボードの白い表面を滑る。キュッという微かな摩擦音。
「まず、今回の成果。証拠改竄は、乃木坂誠の単独行為として処理されました。警視庁監察官室の認定書にも、乃木坂個人の証言に基づく改竄と記載されています。柿沼浩一の冤罪については、証拠の虚偽が認定されたことで、事実上の名誉回復になります」
ホワイトボードに「柿沼事件:解決」と書く。
「早乙女さんの懲戒記録も訂正されました。三年前の処分は無効。これも認定書に基づく措置です」
「早乙女懲戒:訂正済」。
「ここまでが、回収できた分です。次に、回収できていない分」
「だが、指示者は未特定だ」
蓮田がコーヒーを手に持ったまま言った。
「はい。乃木坂は自分の罪を認めましたが、誰に指示されたかは最後まで言わなかった」
「推理を聞こう」
わたしはホワイトボードに三つの名前を書いた。
桐生鷹志。水守達也。そして、空白。
「乃木坂の【真贋鑑定】の色を整理します。指示者について訊いたとき、二回とも黒でした。意図的な隠蔽。ただし、この黒の質が気になっています」
「質?」
有坂が小さな声で訊いた。今日は午後一時のシフトで出社している。嘱託月額八万円。ノートを膝の上に置き、ペンを持っている。
「黒には濃淡があります。桐生に関する情報を隠しているときの黒と、乃木坂が見せた黒は、深さが違う。乃木坂の黒は、桐生を恐れている色ではなかった」
「桐生の上か」
蓮田。短い。
「そう推理しています。乃木坂は桐生の指示で動いたのではなく、桐生の上にいる人間の指示で動いた。あるいは、桐生を経由して、その上の意志が降りてきた」
ホワイトボードの空白を指す。
「指示者は桐生本人ではなく、桐生のさらに上です。乃木坂の黒の深さは、組織全体を恐れている色でした」
蓮田がマグカップを置いた。音を立てない。この男が音を立てずにものを置くとき、頭が全速で動いている。
「新しい話をする。雷電の外部監査の件だ」
椅子の背にもたれ、天井を見上げる。白髪が頭上の光を返している。
「七月から始まってた特別監査の中間報告が出た。結論は『重大な問題なし』。予想通りだろう」
「予想通りです。外部監査はポーズだと最初から考えていました」
「だが、俺はそこで終わらなかった。監査法人の指名権を調べた」
蓮田がデスクの引き出しから紙を一枚出した。コピー用紙。どこかの登記情報を印刷したもの。わたしに差し出す。
「雷電グループの特別監査を担当した監査法人は、グループ本体から指名されている。指名権を持っているのは——」
紙に目を落とす。代表取締役の欄。
「鶴岡武彦。雷電グループ代表取締役」
蓮田が頷いた。
「桐生は副代表だ。S級探索者で、雷電クランの実質的なトップだが、会社としてのグループ本体では副代表に過ぎない。桐生の上は一人しかいない。鶴岡武彦。グループ代表取締役。この男が監査法人を選んでいる。自分で選んだ監査法人に、自分の会社を調べさせてる。結果が『問題なし』になるのは、芝居の台本と同じだ」
わたしはホワイトボードの空白に、名前を書いた。『鶴岡武彦』。
デスクに戻り、引き出しから黄色い付箋を一枚出す。ペンを取る。六枚目の付箋。
『鶴』。
五枚の付箋の横に、六枚目を貼った。『桐』『黒』『雷』『水』『乃』『鶴』。六枚。黄色い紙がデスクの壁に並ぶ。
「鶴岡武彦。この名前の書類を、わたしはまだ一枚も見ていません」
蓮田が腕を組んだ。早乙女がこちらを見ている。有坂がペンを止めた。
「書類がない人間は、【真贋鑑定】の射程の外にいます」
早乙女が一度、息を吐いた。それから口を開く。
「鶴岡はダンジョンに入らない人間だろ。経営者。探索者じゃない。保険金請求も、ダンジョン庁への届出も、全部桐生以下がやってる。鶴岡の名前が書類に出ない仕組みになってるんだ」
「その通りです。だからこそ、今まで誰も鶴岡に触れなかった」
窓の外で蝉が鳴いている。七月の終わり。夏の盛りが近い。空調の冷気がデスクの上の付箋を微かに揺らした。
六枚の付箋。六つの名前。そしてその先に、まだ紙にならない男がいる。
「ならば、書類を、作らせるしかない」
有坂がノートにペンを走らせている。小さな字。几帳面な筆跡。鶴岡武彦。その名前を、有坂は初めて聞いたはずだった。だが書き留めることを躊躇しない。この部屋にいる以上、全ての情報を共有する。嘱託職員であっても。
蓮田が鼻で短く息を吐いた。
「やれやれ」
いつものぼやき。だがその声は、二十五年のベテランが次の大きな仕事を引き受けるときの声だった。
有坂が立ち上がる。
「コーヒー、淹れてきます」
給湯室に消えていく。この部屋のコーヒー係は、いつの間にか有坂になっていた。三分後、四つのマグカップが第三課のデスクに並んだ。深煎りの匂いが、ホワイトボードに書かれた文字の前を漂っている。
六枚の付箋が、蛍光灯の明滅の下で並んでいる。黄色い紙に黒い文字。六つの名前。
そしてその先に、まだ紙にならない男が座っている。書類のない椅子に。




