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ダンジョン保険の例外案件係に左遷された俺、【真贋鑑定】で業界の闇を全部暴く  作者: 夜摩 高嶺
第二部『雷電の闇』

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第37話「証人の選択」

 電話が鳴ったのは、一週間後だった。

 七月十日、木曜日。午前八時四十三分。第三課のデスクの上で、わたしの携帯が震える。登録のない番号。市外局番は〇三。都内。


「宇津木さんですか。乃木坂です」


 声に、あの応接室の温度はなかった。低い声は同じだが、殻が薄い。ひびの入った殻の向こうから、生身の声が漏れている。


「話がある。一人で来てくれ。品川駅の港南口を出て、高輪方面に三分歩いたところに『珈琲 山小屋』という店がある。午後一時」


「伺います」


 電話が切れた。通話時間、二十二秒。


 蓮田がマグカップを傾けたまま、こちらを見ている。


「乃木坂か」


「はい。一人で来いと」


「行け。だが、録音はするな。あの男が自分から来た以上、こっちの誠意を見せる番だ」


 わたしは頷いた。録音しない。それは、乃木坂の言葉を法的証拠としてではなく、人間の証言として受け取るという意思表示になる。蓮田はそれを分かったうえで言っている。


 早乙女は外出中だった。足立区の柿沼に、保管庫での閲覧結果を報告しに行っている。原本と提出版の差異が確認できたこと。入退室ログが消されていたこと。柿沼の供述が全て真実だったことを、直接伝えに。


 昼前にメッセージが来ていた。「柿沼さん、泣いてた。声出さずに。おれは知ってたって、何度も言ってた」。早乙女らしい報告。事実だけ。感想がない。



 品川。午後一時。

 『珈琲 山小屋』は、ビル街の裏通りにある小さな喫茶店だった。木の看板。手書きの文字。ドアを開けると、焙煎の匂いが鼻腔を包む。深煎りの豆。苦味と甘味が混じった重い匂い。


 奥の席に乃木坂がいた。スーツではなく、白いシャツにチノパン。ネクタイを外している。テーブルの上にコーヒーが一杯。手をつけた形跡がない。


 隣に、封筒が一つ。白い。A4サイズ。厚みがある。


「座ってください」


 わたしは向かいに座った。ウェイトレスが水を持ってくる。グラスの氷が鳴る音。注文はブレンドを一つ。


 乃木坂はしばらく黙っていた。コーヒーカップの取っ手を指で回している。時計回りに四分の一。戻す。また四分の一。繰り返し。考えをまとめているのか、切り出す言葉を探しているのか。


 店内には他に客が二組。カウンターで新聞を読んでいる老人と、窓際でノートパソコンを開いている若い女性。どちらもこちらを見ていない。乃木坂がこの店を選んだ理由が分かる。人がいるが、干渉しない。適度な雑音。有線放送のジャズが、低い音量で流れている。


「辞表を書いた」


 低い声だった。


「今朝、上に出した。雷電リスク・マネジメントのコンプライアンス推進部副部長、乃木坂誠。自己都合退職。受理はまだだが、来週には出る」


 【真贋鑑定】。青。辞表を書いたことも、提出したことも、事実。


「桐生に話が行く前に、自分から出る。退職と引き換えに、一つだけやることがある」


 乃木坂が封筒を手に取った。テーブルの上を滑らせて、わたしの前に置く。


「警視庁の監察官に証言する。柿沼事件の証拠調書三枚目と写真添付報告十三枚目を差し替えたのは、俺だ。入退室ログの十二月十一日分を抜いたのも俺だ。この封筒の中に、当時の経緯を時系列で書いた陳述書が入っている」


 青。全て青。嘘がない。乃木坂はこの一週間で、三年間閉じていた口を開く決断をした。


 わたしはコーヒーを受け取った。一口飲む。苦い。深煎りの苦味が舌の奥に残る。


「乃木坂さん。一つ、確認させてください」


「何だ」


「誰の指示でこれをしましたか」


 乃木坂の指が止まった。カップの取っ手から離れる。テーブルの上に、両手を置いた。指が開いている。隠すものがない姿勢。だが。


「指示を出した人間の名前は言えない」


 黒。


「なぜやったかも言えない」


 黒と青の混在。奇妙な色だった。「言えない」という事実は真実。だが「言えない」の裏にある理由は隠されている。自分の罪は認める。だが指示者の名前は伏せる。その線引きを、この男は自分の中で決めてきている。


「それでは、証言の価値が半分になります」


「分かっている。だが、これがおれの限界だ」


 青。限界だという認識は本物。乃木坂はこれ以上踏み込む気がない。踏み込めないのではなく、踏み込まないと決めている。指示者の名前を出せば、自分の身だけでは済まない。家族がいるのかもしれない。あるいは、指示者の報復を恐れている。黒の色が、それを物語っていた。


「宇津木さん。おれは自分のやったことの責任は取る。警視庁の監察に出頭して、全部話す。証拠を差し替えた手順も、ログを消した方法も。だが、上の名前だけは出せない」


 わたしはコーヒーカップをソーサーに戻した。陶器が触れ合う、小さな音。


「受け入れます」


 乃木坂が顔を上げた。予想していなかったのだろう。目が一瞬、揺れた。


「半分でも、証言がなければゼロです。ゼロと半分なら、半分を取ります。保険の査定と同じです。全損か半損かではなく、回収できるものを回収する」


 自分でも会計屋の比喩だと思う。だが、これがわたしの言葉の出し方だった。


 乃木坂はコーヒーに初めて口をつけた。一口。カップを戻す。手が震えていない。決めた人間の手は、もう震えない。


「早乙女に伝えてくれ。おれは——あいつに、まだ言えることが全部は言えない。だが、あいつの書類は直す。それだけは、おれがやる」


 青。


 わたしは封筒を手に取った。白い封筒。中の紙の厚みが、指を通して伝わってくる。乃木坂が一週間かけて書いた陳述書。三年分の事実の重さ。


***


 七月十七日。

 乃木坂が警視庁監察官室に出頭した。芝山が立ち会っている。陳述書の内容と、本人の口頭証言。保管庫の原本・提出版の差異確認結果と突合され、証拠改竄が改竄者本人の証言で裏付けられた。


 七月二十四日。

 警視庁監察官室が、柿沼浩一事件における証拠改竄を正式に認定。行政記録として確定する。認定書の写しが佐伯弁護士を通じてわたしの手元に届いた。A4二枚。簡潔な書式。だがこの二枚の紙が持つ重さは、柿沼の文書箱の四センチより重い。


 それに伴い、早乙女灯里の懲戒処分が見直し対象になった。証拠隠滅の疑いで懲戒処分を受けた根拠が、改竄された証拠に基づいていた。因果の鎖が崩れれば、処分の根拠も崩れる。警視庁人事課が、懲戒記録の訂正手続きを開始した。


 三年越しの冤罪が、紙の上で消えていく。


 蓮田がマグカップを置いた。第三課のデスク。夕方の光が窓から差し込んでいる。七月の日は長い。十八時半を過ぎても空がまだ赤い。蝉の声が遠くから届いている。七月下旬の東京。


「乃木坂は、自分の罪は認めた」


「はい。証拠の差し替えとログの削除。両方を自白しています」


「だが、名前は出さなかった」


「出しませんでした。指示者が誰かは、最後まで言わなかった」


「つまり、指示者はまだ椅子に座ってる」


 わたしは頷いた。デスクの端に目をやる。五枚の付箋。『桐』『黒』『雷』『水』『乃』。


 『乃』の付箋は、もう剥がしてもいいのかもしれない。乃木坂は自分の罪を認め、証言した。だがまだ残す。乃木坂に指示を出した人間が特定されるまで。


 乃木坂の黒の色が示していたもの。あれは桐生を恐れている色ではなかった。もっと上。桐生の上にいる人間を恐れている色。


 窓の外で風が鳴った。


 書類は修正された。

 だが、名前の消えた指示者の椅子に、まだ誰かが座っている。


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