第36話「三歩の距離」
「あんた、一人で行ったな」
第三課のドアを開けた瞬間、早乙女の声がぶつかってきた。七月二日の夕方。品川から戻ったわたしを、早乙女は椅子に座ったまま迎えた。足を組んでいない。背筋が立っている。怒りの姿勢だった。
「行きました」
「なんで言わなかった」
「言えば、一緒に来たでしょう」
「当たり前だ」
早乙女の声に温度がない。怒鳴っているのではない。低く、平坦で、だからこそ重い。
「乃木坂はあたしの事件だ。あたしの証拠を差し替えた人間だ。あんたが一人で会いに行く案件じゃない」
わたしは鞄をデスクに置いた。蓮田は席を外している。有坂もいない。第三課に二人だけ。空調の吹き出し口だけが、低い音を立てている。
「早乙女さん。乃木坂に会ったのは、まず色を確認するためです。あの男の言葉に【真贋鑑定】を通す必要があった。感情的な対面の前に、事実を押さえておきたかった」
「感情的。あたしが感情的になると思ったのか」
「思いません。ですが、乃木坂はあなたの顔を覚えています。元同僚であり、あなたを外した側の人間です。あなたが隣にいれば、乃木坂の反応は変わる。ガードが上がる。本音が出ない。わたしが一人で行くことで、乃木坂の地金を見る必要がありました」
「で、見たのか。地金」
「見ました。黒です。深い黒。あの男は指示者の名前を知っていて、隠しています」
早乙女が黙った。五秒。腕を組み、椅子の背にもたれた。天井を見ている。唇が薄く動いたが、言葉にはならなかった。
「次は、あたしも行く」
命令だった。了承を求める声ではない。
「分かりました」
*
翌日。七月三日、木曜日。
午前十時。品川。雷電リスク・マネジメント本社ビル。十五階。同じ応接室。
宇津木伊吹と早乙女灯里。乃木坂に面会を申し入れたとき、受付は「弁護士同席が条件です」と伝えてきた。乃木坂の側の弁護士だろう。だが約束の時間になっても弁護士は現れなかった。
応接室は昨日と同じ部屋だった。テーブルの木目。壁の時計。窓から見える品川の高層ビル。昨日わたしが置いた名刺はもうなかった。回収されたのか、乃木坂が持ち帰ったのか。
ドアが開く。乃木坂が入ってきた。昨日と同じ紺のスーツ。ネクタイだけが違う。グレー。表情も同じ。体温の低い男の、平坦な顔。
だが早乙女を見た瞬間、足が止まった。
一秒。
乃木坂の靴が、カーペットの上で擦れる音がした。止まりかけて、歩き直す。何事もなかったように椅子に向かう。だがわたしは見ていた。その一秒を。三年ぶりの対面。
「弁護士がまだ来ていないようですが」
乃木坂の声は昨日と同じ温度だった。
「到着まで待ちます。ですが、お顔を合わせるのは久しぶりかと思いましたので」
「何の話ですか」
わたしは黙った。早乙女に渡す。
早乙女が口を開いた。
「乃木坂先輩」
先輩。その呼び方を、乃木坂は予想していなかったのだろう。目がわずかに動いた。こめかみの横の血管が、一度だけ脈打つのが見えた。
「あのとき、あたしはあんたを先輩だと思ってた」
早乙女の声は低かった。感情を抑えているのではない。感情の底にある岩盤の上に立っている声。揺れない。
「巡査部長の乃木坂先輩。帳場で調書を回してくれた。鑑識の報告が遅いとき、あんたが催促の電話をかけてくれた。あたしが捜査一課に入って二年目で、まだ何も分かってなかったとき、被疑者の前での立ち位置を教えてくれたのは先輩だ。取調室のドアの横に立て。背中を壁につけるな。いつでも動ける姿勢でいろって」
乃木坂が何も言わない。テーブルの上の紙コップに視線を落としている。水には手をつけない。応接室の時計が秒針を刻んでいる。カチ、カチ。規則的な音が、沈黙の輪郭を際立たせる。
「先輩が証拠を差し替えた。先輩のアクセス権限で保管庫に入った。あたしが外された翌日のことだ」
沈黙。応接室の空調の音。品川のビル群の向こうで、遠くヘリコプターの低い音が鳴っている。窓から差し込む午前の光が、テーブルの上に白い四角を落としている。
「三年前、入退室ログの十二月十一日分が抜けてる。あの日に保管庫に入れたのは、アクセス権限を持ってた捜査チームの四人だけだ。あたしはその前日に外されてた。残り三人のうち、主任と鑑識係は十一日に別の現場にいた記録がある」
早乙女が一度、息をついた。短く。鼻から。
「残りは一人だ。先輩」
乃木坂の顎が下がった。テーブルを見ている。目は開いている。だが焦点が合っていない。体温の低い男の殻に、ひびが入っている。
「謝って済むと思ってない」
乃木坂の声が、初めて揺れた。喉の奥から押し出すような声。
「だが、俺にも事情があった。やらなきゃならない理由が——」
【真贋鑑定】。黄色。正当化の色。自分の行為を「やむを得なかった」と信じようとしている。だが完全には信じ切れていない。だから黄色。赤ではなく、青でもない。
「事情ではありません」
わたしが口を開いた。乃木坂の目がこちらに向く。
「事情ではなく、指示です。乃木坂さん、あなたは自分の判断で保管庫に入ったわけではない。誰かの指示で動いた」
乃木坂の顎の筋肉が引き攣った。首筋の腱が浮く。昨日と同じ反応。だが今日は、そこに汗が加わっている。こめかみに薄い汗。応接室の空調は効いているのに。
早乙女が立ち上がった。椅子が後ろに下がる。カーペットを擦る音。
「三年前、あたしはあんたの三歩手前にいた」
声が変わった。低さは同じ。だが底にあるものが違う。岩盤ではない。三年間積み上げてきたものの重さが、声に乗っている。
「辰巳を捕まえる三歩手前。雷電の内部告発者を保護する三歩手前。証拠を裁判に出す三歩手前。あの三歩を、あんたが潰した」
辰巳。柿沼事件の当時、雷電の内部から情報提供を試みた人間の名前。わたしは初めて聞いた。早乙女はその名前を、三年間、どこにも出さなかった。
乃木坂が口を開きかけた。閉じた。また開きかけた。言葉が出ない。
早乙女は振り向かなかった。テーブルの端を回り、ドアに向かう。わたしに目配せもしない。足音が硬い。スニーカーの底がカーペットを叩く、乾いた音。
ドアを開ける。出る。ドアが閉まる音が、応接室の空気を揺らした。
早乙女の足音が廊下を遠ざかっていく。わたしと乃木坂が残された。
わたしは名刺を一枚、テーブルの上に置いた。昨日置いたものとは別の一枚。
「考えが変わったら、連絡してください。早乙女のためではなく、あなた自身のために」
乃木坂は答えなかった。紙コップの水に映る蛍光灯の光を、じっと見つめている。背中が丸くなっていた。元巡査部長の姿勢が、初めて崩れている。
*
エレベーターの中で、早乙女は壁にもたれていた。
腕を組み、顎を引き、目を閉じている。
泣いていない。
この人は泣かない。三年前も、今日も。代わりに、閉じた目の下の筋肉がわずかに震えていた。唇は一文字。噛んではいない。噛めば感情を認めることになる。だから噛まない。
エレベーターが一階に着いた。ドアが開く。品川のエントランスの空調が流れ込む。受付の女性がこちらを見ている。早乙女は目を開け、壁から背を離し、先に歩き出した。足音にためらいはない。
早乙女は振り返らなかった。
だが、エレベーターの中で、一度だけ、目を閉じた。
三歩分の沈黙を、まだ抱えたまま。




