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ダンジョン保険の例外案件係に左遷された俺、【真贋鑑定】で業界の闇を全部暴く  作者: 夜摩 高嶺
第二部『雷電の闇』

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第35話「乃木坂誠」

 七月二日、水曜日。品川。

 雷電リスク・マネジメントの本社ビルは、品川駅港南口から徒歩八分の高層ビルの十四階から十八階に入っている。ガラス張りのエントランス。受付カウンターの背後に、雷電グループのロゴ。金色の稲妻を模したデザイン。


 わたしは一人で来ていた。


 早乙女には告げていない。蓮田にだけ「乃木坂に会いに行きます」と言った。蓮田は三秒黙り、マグカップを置き、「一人でか」と訊いた。「一人です」と答えると、「気をつけろ」とだけ言った。理由は聞かなかった。


 受付で名刺を出した。


「三豊ダンジョン保険、損害査定部第三課の宇津木です。コンプライアンス部門の乃木坂誠さんに、業務照会でお時間をいただきたいのですが」


 受付の女性が内線をかける。カウンターの天板は黒い大理石で、指紋一つない。雷電グループの受付は清潔だった。金の匂いがする清潔さ。三十秒ほど待つ。品川の昼下がり。エントランスの空調が革靴の中の湿気を吸い取っていく。外は七月の日差しがアスファルトを白く焼いているはずだが、ガラス越しに見える景色だけが暑い。


「十五階の応接室にお通しします。エレベーターの奥、左手です」


 エレベーターの中で、自分の呼吸を整える。一人だった。早乙女も蓮田もいない。【真贋鑑定】の射程は対面。文字でなく、人間の言葉の上に色を見る。今日はそれを試す。



 乃木坂誠。三十八歳。元警視庁の巡査部長。現在は雷電リスク・マネジメントのコンプライアンス部門に所属している。


 応接室のドアが開き、男が入ってきた。百七十三センチほど。痩身。髪を短く刈り込み、顎のラインが鋭い。スーツは紺。ネクタイはえんじ色。革靴が床を叩く音に、迷いがない。


 目が泳がない。わたしと視線が合ったとき、逸らさなかった。体温が低い男。声も、表情も、室温と同じ温度で保たれている。


「お待たせしました。乃木坂です」


 名刺を交換する。乃木坂の名刺は厚手のケント紙。雷電グループの社名の下に「コンプライアンス推進部 副部長」と印刷されていた。元巡査部長が、今は民間企業の副部長。警察から企業への転身は珍しくない。だが柿沼事件の捜査チームにいた人間が、その捜査対象だった雷電のグループ企業に転職している。経路に意味がある。


「お話は伺っていますよ」


 【真贋鑑定】。


 「伺っています」の上に、赤い光が走った。嘘。この男はわたしの来訪について何も聞いていない。聞いていないが、聞いているふりをして場を制御しようとしている。


「業務照会としてお時間をいただきました。三年前の柿沼浩一事件について、確認したいことがあります」


 乃木坂の表情が動かない。柿沼の名前を聞いても、眉一つ変わらない。準備していたのか。あるいは、この男は感情を表面に出さない訓練を受けている。元捜査員なら、取り調べの技術は叩き込まれているはずだった。


「柿沼事件。ずいぶん古い話ですね。もう三年前だ」


 青。事実の確認。三年前であることは嘘ではない。だがこの男は「古い話」と言いながら、柿沼の名前を聞いた瞬間に椅子の座り方を変えなかった。最初から、この名前が出ることを想定していた可能性がある。


「古い話ですが、書類の中身は古くなりません。事件の証拠品を閲覧しました。警視庁の証拠保管庫で、原本と提出版の間に差異があることを確認しています」


 乃木坂の右手が、膝の上で微かに動いた。人差し指が親指の腹を擦る。小さな動作。本人は気づいていないかもしれない。


「具体的には、証拠調書の三枚目と写真添付報告の十三枚目。原本と提出版で内容が異なっています。誰かが書類を差し替えた」


「それは大変ですね。警視庁の管理体制の問題でしょうか」


 黄色。微かな黄色。管理体制の問題ではないことを、この男は知っている。知っていて、話を組織の問題にすり替えようとしている。個人の行為を、組織の不備に溶かす。警察でもよく使われる手法だと、早乙女なら言うだろう。


「管理体制の問題ではありません。意図的な差し替えです。挿入した人間の入退室ログは消されていますが、消すことができたのは、当時保管庫のアクセス権限を持っていた捜査チーム内の人間だけです」


 わたしは言葉を区切った。乃木坂の目を見る。


 沈黙。応接室の空調が低く唸っている。窓の外、品川の高層ビル群が午後の光を反射し、ガラス越しに白い光の帯が応接室の壁に伸びている。テーブルの上に置かれた紙コップの水が、空調の振動で微かに揺れていた。乃木坂は水に口をつけていない。


 乃木坂の顔色が変わった。血の気が引いたのではない。逆だ。顎の筋肉が一瞬緊張し、首筋に腱が浮いた。体が戦闘態勢に入っている。元捜査員の体。逃走も攻撃もせず、ただ静止することで場を支配しようとする体の使い方。


「帰ってください」


 声は静かだった。怒りではない。遮断。鉄製のシャッターが下りる音に似ている。乃木坂は椅子から立ち上がりかけて、途中で止まった。立ち上がれば終わる。だがまだ座っている。半端な姿勢。膝に置いた手の甲に、腱が浮いていた。


「業務照会の範囲を超えています。これ以上のお話は、弁護士を通してください」


 わたしは立ち上がらなかった。椅子に座ったまま、乃木坂を見る。


「最後に一つだけ。誰の指示で、これをしましたか」


 乃木坂の唇が動いた。

 音にならなかった。唇が形を作りかけて、止まった。喉が閉じている。言いかけた言葉を、体が止めた。


 【真贋鑑定】。


 黒。


 深い黒。今まで見たどの黒よりも濃い。紙の上ではなく、人間の口の上に浮かぶ黒。乃木坂は指示者の名前を知っている。知っていて、意図的に隠している。その隠蔽の深さが、黒の濃さに出ている。


 恐怖の色だった。桐生を恐れている色か。あるいは、桐生のさらに上を。


 わたしは立ち上がった。鞄を手に取り、名刺入れからもう一枚、名刺を出す。テーブルの上に、紙コップの横に置いた。


「考えが変わったら、ご連絡ください。わたしの直通番号です」


 乃木坂は名刺を見なかった。視線がわたしの顔に固定されている。だが目の奥には何も映っていない。透明な壁。元捜査員が取り調べ室の向こう側に座るときの目。自分が容疑者になる瞬間を、この男はすでに想定しているのかもしれなかった。


 応接室のドアを開ける。廊下に出る。背後でドアが閉まる音。乃木坂は見送りに立たなかった。



 品川駅。港南口のペデストリアンデッキ。七月の午後の日差しが、ガラスとコンクリートに反射して白い。サラリーマンの群れが駅に向かって流れている。汗の匂い。アスファルトの熱気。革靴の底を通して、地面の温度が足裏に伝わる。


 スマートフォンを取り出した。蓮田に短いメッセージを送る。「終わりました。乃木坂は名前を出しませんでした。ただし、黒でした」。


 三十秒後、返信。「分かった。戻ってこい」。それだけ。蓮田らしい。感想がない。次の手順だけがある。


 ペデストリアンデッキを渡る。人波の中で、わたしは乃木坂の最後の表情を思い返していた。口が動いて、止まった瞬間。あの一秒に、この男の三年間が凝縮されている。言いたい。だが言えない。言えば自分だけでなく、自分の上にいる人間も巻き込まれる。その恐怖が、黒の色になる。


 品川駅の改札を抜けた。ホームに上がる。山手線の電車が滑り込んでくる。ドアが開き、冷房の風が顔に当たる。


 乃木坂の口は閉じた。

 だが、閉じた口の色は、わたしに全てを教えた。

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