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ダンジョン保険の例外案件係に左遷された俺、【真贋鑑定】で業界の闇を全部暴く  作者: 夜摩 高嶺
第二部『雷電の闇』

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第34話「保管庫」

 早乙女の足が止まったのは、建物に入る前だった。

 六月三十日、月曜日。午前九時四十五分。警視庁の証拠保管庫が入る合同庁舎は、桜田門の本庁舎から徒歩十分ほどの場所にある。築四十年の鉄筋コンクリート。外壁のタイルが一部剥落して、補修の跡が白く浮いている。


 正面入口ではなく、地下駐車場からの搬入口を使う。芝山の指示だった。前日に送られてきたメールには、「正面からは避けてください。搬入口のB-3ゲートで合流します」とだけ書かれていた。監察官の立場で民間人を連れることが、庁内でどう映るかを計算している。


 搬入口の鉄扉の前で、早乙女が立ち止まった。スニーカーの爪先が、コンクリートの段差に引っかかったように動かない。


「早乙女さん」


「大丈夫」


 声は平坦だった。だが、肩の線が硬い。この建物の隣のビルに、かつて捜査一課の分室があった。早乙女が二十五歳まで通った場所。地下の保管庫も、捜査員として何度か出入りしたはずだ。


 わたしは黙って先に歩いた。振り返らない。蓮田に言われていた。「一人にするな」。だが、「支えろ」とは言われていない。早乙女灯里は、支えられることを嫌う人間だ。先に歩いて、背中を見せる。それがこの人に対する距離感だった。


 三秒後、後ろからスニーカーの音がついてきた。コンクリートの地面を叩く、軽い足音。早乙女の歩幅は乱れていなかった。



 地下二階。B棟。

 芝山幸雄が通路の突き当たりで待っていた。グレーのスーツに紺のネクタイ。監察官の身分証を首から下げている。隣に保管庫の管理担当者。五十代の男性職員で、手に鍵束を持っている。鍵が七つ。ジャラジャラと金属が擦れ合う音が、地下通路に反響した。


「おはようございます。宇津木さん、早乙女さん」


 芝山の声は穏やかだった。早乙女の名前を呼ぶとき、一瞬だけ視線が彼女の表情を測る。だが、すぐに逸らした。踏み込まない。この男は距離の取り方を知っている。


 管理担当者が鍵を選び、保管庫の扉を開けた。厚さ十センチの鉄扉。蝶番が軋む低い音。扉の向こうから、冷たい空気が流れてきた。地下二階。空調が、温度と湿度を一定に保っている。紙の劣化を防ぐためだ。十八度。湿度四十五パーセント。六月の地上とは別世界。


 棚が並んでいる。天井まで届くスチール製の棚が、通路の両側に整然と続く。段ボールの文書箱が積まれ、それぞれに事件番号と年月日が書かれたラベルが貼ってある。蛍光灯の白い光。影がない。均一な照明が、棚と棚の間を同じ明るさで照らしている。


「柿沼浩一事件。令和五年刑第四七二八号」


 管理担当者が棚の間を進む。三列目の左側、下から二段目。段ボール箱が三つ並んでいた。箱の側面に、黒マジックで番号が振ってある。「1/3」「2/3」「3/3」。


「どうぞ。閲覧は室内の作業台をお使いください。持ち出しは不可です。コピーは申請書を別途提出してください」


 管理担当者が下がった。芝山は棚の端に立ち、腕を組んで黙っている。同行者。監視者。その両方。


 わたしは三つの箱を作業台に運んだ。段ボールの底が、スチールの天板を擦る音。箱は軽くない。証拠品の原本が三年間、この地下二階で眠っていた。誰にも読まれず、誰にも比較されず。


 早乙女が二箱目と三箱目を運ぶ。持ち上げるとき、一瞬だけ箱のラベルに目を止めた。「令和五年刑第四七二八号 押収品 3/3」。かつて自分が捜査に関わった事件の証拠を、今は民間人として持ち上げている。その事実を、この人は表情に出さない。


 一つ目の箱を開ける。ゴム手袋を嵌めた。管理担当者が用意してくれた使い捨て。証拠品に素手で触れるわけにはいかない。ゴムの弾力が指先を締めつけ、紙に触れる感触が一枚のフィルター越しになる。


 【真贋鑑定】を起動する。


 原本の一枚目。事件概要書。青。第三課で見た写しと同じ色。

 二枚目。青。

 三枚目。


 青。


 手が止まった。第三課で見た提出版の三枚目は赤だった。原本は青。同じ書類番号、同じ表題、同じ日付。だが、記載内容が違う。押収品リストの四行目。提出版では「柿沼宅居間のテーブル上から発見」と書かれていた箇所が、原本では「柿沼宅からの押収品には該当なし」と記されている。


「ここです」


 早乙女が隣に来た。わたしが指した行を、食い入るように見ている。


「この一枚が、改竄の起点です。原本には『該当なし』と書かれている。提出版では『発見』に変わっている。誰かがこの一枚を差し替えた」


 十三枚目。写真添付報告書。原本を開く。青。提出版は黒だった。原本と提出版を並べる。報告書の文面は同じだが、添付された写真の番号が異なる。原本には存在しない写真番号が、提出版に一枚追加されている。


「写真も差し込まれてる」


 早乙女の声が低い。指先が、原本の紙面の縁を辿る。ゴム手袋の白い指が、紙の上を滑っていく。


「三枚目と十三枚目。この二点で、柿沼の自宅から証拠が『発見された』という虚構が組み立てられています。原本にはなかったものが、提出版には存在する。古典的な証拠捏造です」


 芝山が腕組みを解いた。ポケットからメモ帳を出し、何かを書きつける。ペンの走る音が、静まり返った保管庫に響いた。


「次に確認すべきは、誰がこの差し替えを行ったかです」


 二つ目の箱を開ける。入退室ログの綴り。保管庫に誰がいつ入ったかの記録。紙に印字されたログ。日付順に並んでいる。


 柿沼事件の証拠品が、保管庫に収められた日の翌週。ログをめくる。十二月七日、八日、九日。十日。


 十一日のページがない。


 十二日に飛んでいる。


「一日分、抜けてます」


 芝山が背後から近づいてきた。棚の端から動かなかった男が、わたしの声で歩み寄る。


「十二月十一日の入退室ログが欠損しています。前後の日付は全てある。この一日だけが、ない」


「システムエラーか」


「ログの管理番号は連番です。十日が三七四二、十二日が三七四四。三七四三が抜けている。システムエラーなら管理番号も飛ばない。人の手で抜いたとしか考えられません」


 芝山の顔が硬くなった。口元が引き締まる。眉の間に、縦の皺が一本入る。表向きの穏やかさが剥がれ、監察官の顔が出ている。


「三年前の入退室ログだけが、ピンポイントで消えてる。偶然じゃない」


「偶然ではありません」


 芝山が棚を見た。文書箱の列。三年分の証拠品が並ぶ地下二階。ここに入れる人間は、限られている。そしてログを抜ける人間は、さらに限られる。


 早乙女が黙っていた。何も言わない。だが目が、作業台の上の原本と提出版を交互に見ている。三枚目。十三枚目。入退室ログの欠損。三つの事実が、一本の線で繋がっている。その線の先に、一人の名前がある。


 わたしは手袋を外した。ゴムが指から剥がれるときの、湿った感触。地下二階の冷気が、素の指先に触れる。十八度。体温との差が、じわりと伝わってくる。


 芝山がメモ帳を閉じた。表情が戻っていない。穏やかさが剥がれたまま。この男は今、自分がどこまで踏み込むかを計算している。監察官として報告書を書くなら、ログの欠損は記載しなければならない。だがその報告書が組織のどこに届き、誰の目に触れるかも、同時に計算しているはずだった。


 保管庫の鉄扉が閉まる。蝶番の軋み。施錠の金属音。地下通路を戻る四人の足音が、コンクリートの壁に反響して消えていく。


 ログを消した人間がいる。

 その人間の名前を、わたしたちは、もう知っている。

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