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ダンジョン保険の例外案件係に左遷された俺、【真贋鑑定】で業界の闇を全部暴く  作者: 夜摩 高嶺
第二部『雷電の闇』

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第33話「柿沼浩一」

 足立区竹ノ塚。東武伊勢崎線の高架をくぐると、商店街の看板が途切れ、住宅と町工場が交互に並ぶ通りに出る。六月二十七日、金曜日の午後三時。梅雨の合間の曇り空。湿った空気が、首筋に纏わりつく。


 柿沼浩一の現住所は、町工場の裏手にあるアパートの二階だった。鉄骨造の外階段。手すりの塗装が剥げて、赤錆が指先にざらつく。二〇三号室。表札はなく、ドアポストに「柿沼」とだけ書かれたテープが貼ってある。


「ここだね」


 早乙女が階段を上がり、わたしの横に立った。カーゴパンツにスニーカー。ジャケットは着ていない。六月の湿気に、布地が肌に張りつくのを嫌ったのだろう。


 インターホンは壊れていた。ドアをノックする。金属の薄い音。五秒後、内側から足音。重い。引きずるような歩き方。


 ドアが開いた。


 柿沼浩一。四十二歳。三年前のB級探索者登録証の写真より、十歳は老けて見える。頬がこけ、目の下に濃い隈。身長は百七十五ほどだが、猫背で小さく見えた。作業着のまま。油の匂いが漂う。町工場の旋盤の匂い。金属を削ったときに出る、鉄と潤滑油の混じった匂いが、作業着の繊維に染みついている。


「誰だ」


「三豊ダンジョン保険の宇津木です。佐伯弁護士からご連絡が行っているかと思いますが」


「ああ。弁護士の」


 柿沼はドアを開いたまま、わたしたちを見た。目に警戒がある。だが、追い返す気はないらしい。体を横にずらし、中に入れという仕草をした。



 六畳一間。台所と一体になったワンルーム。窓は一つ。カーテンが半分閉まっている。畳ではなく、フローリングだが、経年で色が褪せている。ちゃぶ台が一つ。座布団が三枚。テレビは古い型で、上に工具のカタログが積んであった。


 冷蔵庫が低く唸っている。コンプレッサーの音。壁の時計は三時七分を指しているが、秒針が動いていない。電池が切れたまま放置されている。


「座ってくれ」


 柿沼がちゃぶ台の前にあぐらをかいた。わたしと早乙女が向かい側に腰を下ろす。座布団は薄い。フローリングの硬さが、膝に伝わってくる。


 柿沼はお茶も出さなかった。出す気がないのか、出すものがないのか。ちゃぶ台の上にはマグカップが一つ。中身は麦茶らしい。氷が溶けて、水滴がカップの外側を伝っている。


「何の用だ。もう終わったことだろ。裁判は無罪だった。それで終わりだ」


 声に怒りはなかった。疲労。三年間繰り返してきた言葉なのだろう。自分に言い聞かせる台詞。もう終わった。もう終わった。


「柿沼さん。お時間をいただいてすみません。わたしは三豊ダンジョン保険で損害査定の仕事をしています。柿沼さんの事件の書類を全て読みました」


「読んだ。それで」


「書類に、スキルを通しました」


 柿沼の目が動いた。スキル。探索者であった人間には、その一言の重みが分かる。


「わたしのスキルは【真贋鑑定】と言います。書類の記述が真実か虚偽か、色で判別できる。柿沼さんの事件の証拠調書二百三十七枚を全て通しました」


「……で」


「証拠調書の三枚目と十三枚目に、虚偽と隠蔽がありました。あなたの供述調書は全ページ、青です。青は真実を示す色です」


 柿沼の手が止まった。ちゃぶ台の上で、組んでいた指がほどける。右手の人差し指が、小さく震えている。旋盤で鍛えた指。節が太い。爪の間に黒い油汚れが残っている。


「おれが、嘘をついてなかったってことか」


「はい。一ページも例外なく」


 沈黙。冷蔵庫のコンプレッサーが唸る。窓の外で、町工場のプレス機が遠く叩く音。規則的な金属音。柿沼の生活の音。


「三年前、おれは雷電の仕事をやっていただけだ」


 声が変わっていた。疲労が消え、低い声に芯が通る。


「B級の仕事を振ってもらって、保険金の請求は上が全部やった。おれは現場に入って、仕様書通りに動いて、報酬をもらった。それだけだ。保険金請求の書類なんか見たこともない。なのに詐欺の実行犯にされた」


 【真贋鑑定】。柿沼の言葉の上を、青い光が走る。全て青。混じりけのない真実。この男は三年前も、今も、同じことを言っている。同じ言葉を。誰にも信じてもらえないまま。


「警察の取り調べで何度も言った。弁護士にも言った。裁判でも言った。でも、証拠が全部おれを指してた。押収品がおれの自宅から出てきたことになってた。出てくるわけがない。おれの部屋にそんな書類はなかった」


 青。


「無罪になったのは、検察の立証が不十分だったからだ。おれの無実が証明されたんじゃない。証拠が足りなかっただけだ。だから世間は、おれをグレーのまま放り出した」


 青。声が少し震えている。


「探索者登録は戻らなかった。クランからも連絡はなし。四十二で工場の旋盤工やってる。B級だったんだぞ、おれは。月に百五十万は稼いでた。今は手取り二十二万だ」


 柿沼が麦茶のマグカップを持ち上げた。氷が鳴る。一口飲んで、ちゃぶ台に戻す。力が入りすぎて、底が木の表面を叩いた。鈍い音。


 早乙女が動いた。ちゃぶ台の端に手を置き、背筋を伸ばし、柿沼を正面から見た。


「あたしは早乙女灯里です。元警視庁捜査一課。柿沼さんの事件の初動捜査に参加していました」


 柿沼の目が見開かれた。


「捜査一課……あんたが」


「あたしは捜査の途中で外されました。証拠隠滅の疑いをかけられて、懲戒処分を受けて、辞めた。あんたの無罪を証明するはずだった証拠を、あたしが守れなかった」


 早乙女の声は平坦だった。感情を殺しているのではなく、事実を並べている。三年分の事実を。


「あたしが守れなかった証拠を、別の人間が差し替えた。それが、あんたの冤罪の始まりだ」


 頭を下げた。深く。早乙女灯里が頭を下げる姿を、わたしは初めて見た。


 柿沼が黙った。十秒。長い十秒。冷蔵庫が止まった。コンプレッサーの音が消え、部屋が静まり返る。窓の外のプレス機の音だけが、規則的に響いている。


「刑事さんが謝ることじゃない」


 柿沼の声は低かった。怒りではない。もっと深い、底のほうにある何か。


「でも、やり直せるなら。あの時の証拠を取り戻してくれ。おれは無罪になった。でも、証拠が嘘だったことは、誰も証明してくれなかった。おれがやってないことを、紙の上で証明してくれる人間は、一人もいなかった」


 青。深い青。祈りに似た色。


 早乙女が顔を上げた。目が赤くなっていない。この人は泣かない。代わりに、唇が一文字に引き結ばれている。決意の形。


「取り戻す」


 二語。それだけだった。



 アパートの外階段を降りる。六月の曇り空。湿気が頬に張りつく。町工場のプレス機の音が、まだ聞こえている。


 早乙女は黙って歩いた。竹ノ塚の駅に向かう道。商店街の惣菜屋から、揚げ油の匂いが流れてくる。夕方の買い物客がちらほらと通りを歩いている。


「早乙女さん」


「何」


「柿沼さんの証拠は、警視庁の保管庫で、まだ眠っています」


 早乙女が足を止めた。振り向かない。背中が見える。百六十七センチ。茶髪のショート。肩の線が、かすかに強張っている。


「月曜だね」


「月曜です」


 早乙女が歩き出した。足音が速い。元刑事の歩幅。わたしは半歩遅れて、その背中を追った。


 竹ノ塚駅のホームに上がる。東武線の高架が、鉄骨の影を落としている。電車を待つ間、早乙女は一度もスマートフォンを見なかった。ホームの端に立ち、線路の先を見つめている。線路は真っ直ぐ北に延びて、曇り空に消える。


 電車が来た。ドアが開く。空調の冷気が、頬を撫でた。


 柿沼が守ろうとした証拠は、警視庁の保管庫で、まだ眠っている。

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