第32話「原本」
正規ルートでは、三ヶ月待ちになる。
佐伯弁護士がそう言い切ったのは、六月二十三日の夕方だった。柿沼事件の全件記録を読み終えた直後、わたしは四谷三丁目の事務所に電話をかけている。
「警視庁の証拠保管庫は裁判所の管理下にあります。確定判決済み事件の証拠品を第三者が閲覧するには、裁判所への申請と検察庁の同意、さらに保管庫管理者の許可が必要です」
佐伯の声は淡々としていた。法律家の簡潔さ。感情を乗せない代わりに、事実の輪郭が鋭い。
「書類は三つの机を渡ります。三つの判子が押されて、初めて保管庫の扉が開く。最短で八十日」
「八十日は無理です」
受話器の向こうで紙をめくる音がした。佐伯先生は通話中も手を止めない人だった。別の案件の書類を捌きながら、こちらの話を聞いている。
「無理というのは」
「雷電の外部監査が七月から始まります。監査期間中に証拠改竄の物証が揃わなければ、監査報告書に反映されません。『重大な問題なし』で報告が確定した後では、それを覆すのに倍の時間がかかる」
「ダンジョン庁の監察官を使いなさい」
佐伯の声が一段低くなる。法廷では見せない、実務家の声。
「監察官の職権で証拠保管庫の例外的閲覧を申請できる制度があります。保管庫側も監察官の要請には応じる慣例がある。申請から許可まで、早ければ三日」
「芝山さん、ですか」
「ええ。芝山幸雄。ダンジョン庁監察官。あなたの判断にお任せしますが、使える手段は使いなさい」
電話を切った。受話器をフックに戻す音。プラスチックの硬い感触が指に残る。佐伯先生は「お任せします」と言ったが、声の温度はほとんど命令に近かった。
*
翌朝。六月二十四日、火曜日。午前九時十五分。
わたしは芝山幸雄の直通番号を押した。ダンジョン庁の代表番号ではなく、名刺の右下に小さく印刷された四桁の内線。三コール目で出る。
「宇津木さん。お電話いただくのは久しぶりですね」
穏やかな声。四十五歳。ダンジョン庁の監察官。雷電の件でも情報を提供してくれた。表向きは協力的で、言葉遣いも丁寧。だがその丁寧さの裏に、常に薄い距離がある。心理的な防護壁。芝山はいつも「宇津木さん」と呼ぶ。名前の呼び方ひとつに、この男の立ち位置が出ている。
「お忙しいところ恐縮です。一つ、お願いしたいことがあります」
「どうぞ」
「三年前の柿沼浩一事件の証拠品について、警視庁の証拠保管庫で閲覧する必要があります。正規ルートでは三ヶ月かかります。芝山さんの職権で、例外的な早期閲覧を申請していただけませんか」
沈黙。受話器の向こうで、ボールペンのノック音が聞こえた。カチ、カチ。リズムが不規則。考えているのか、躊躇しているのか。
「柿沼事件」
「はい。全件記録はすでに弁護士照会で入手しています。原本との差異を確認したい。証拠の改竄があった可能性を、物証で裏付けるためです」
「改竄」
芝山がその単語を繰り返した。繰り返す、という動作自体に意味がある。時間を稼いでいるのか。それとも、自分がこの先どこまで踏み込むかを測っているのか。
五秒の沈黙。電話回線のかすかなノイズが耳に張りつく。空調のダクトを風が抜ける、低い唸り。
「分かりました。申請を出します」
声のトーンが変わっていた。柔らかさが一段消えて、事務的な硬さが前に出る。
「ただし、条件があります。わたしが同行する。監察官として。閲覧の際、わたしも証拠品を確認します」
「構いません」
「あと、宇津木さん。これはダンジョン庁の監察業務の一環として行います。個人的な依頼ではなく、庁が把握すべき事案であるという建て付けです。報告書はわたしの名前で出す」
「理解しています」
「それから、もう一点。閲覧結果について、わたしに先に共有してください。庁内の報告ルートに載せる前に、内容を精査する時間が必要です」
最後の条件。これが本音だろう。芝山は閲覧結果を自分の手元で一度止めたがっている。組織に上げる前に、自分の判断でフィルタリングする余地を確保している。
「承知しました」
電話を切った。プラスチックの音が第三課の静寂に沈む。
窓の外、六月の午前の光。ビル街の合間に見える空は白く霞んでいる。梅雨のさなかだが、今日は雨が降っていない。空調のダクトから流れる冷気が、手首の内側に触れた。
芝山は引き受けた。だが「分かりました」を言うまでの五秒間、あの間に何があったのか。わたしの目は電話越しでは使えない。対面でなければ色は見えない。芝山の声に混じった微かな硬さだけが、判断材料として残っている。
*
二日後。六月二十六日、木曜日。午後二時。
芝山から着信。
「許可が下りました。六月三十日、月曜日の午前十時。証拠保管庫B棟、地下二階です。担当者が案内します」
三日。佐伯先生の読み通り。
「ありがとうございます。当日は早乙女も同行させます」
「早乙女灯里さん。元捜査一課の」
その一言に、わずかな間があった。芝山は早乙女の経歴を知っている。懲戒処分のことも。それを踏まえて、受け入れた。
「構いません。元職員が保管庫に入る場合は別途手続きが必要です。本人確認書類を一点、明日中にお送りください」
「手配します」
通話を終え、わたしはスマートフォンをデスクに置いた。六月三十日。月曜日。四日後。
早乙女は外出中だった。足立区の柿沼の現住所を下見に行っている。佐伯先生が調べてくれた住所のメモを手に、朝から出ていた。連絡は戻ってからにする。
有坂は午後のシフトで出社してくる。嘱託月額八万円。週四日勤務。午後一時から五時。六月上旬の復帰以来、この勤務パターンを崩していない。第三課の人間は、それぞれの事情を持ってここにいる。
隣のデスクに目をやると、蓮田がマグカップを傾けていた。中身は空に近い。コーヒーの残り香。焙煎の苦味が混じった匂いが、まだ漂っている。有坂が先日買ってきた豆。
「芝山が動きました。閲覧許可が出ています」
「そうか」
蓮田はマグカップを置いた。置き方が静かだった。この男にしては。
「芝山の条件は」
「三つです。同行。報告書を芝山名義で出すこと。閲覧結果の事前共有」
「三つ目が本命だな」
わたしは頷いた。蓮田は鼻で笑うでもなく、ただ天井を見上げた。銀縁の老眼鏡が白い光を返している。
「芝山を信じすぎるな」
「信じてはいません。利用しています」
「利用してるつもりで使われるのが、ああいう男の怖いところだ。あいつは組織の論理で動く。組織と俺たちの利害が一致してる間は頼りになる。だが一致しなくなった瞬間、あの男は組織を選ぶ。間違いなく」
蓮田が冷めたコーヒーを飲み干した。顔を歪める。酸味が舌に残っているのだろう。
「行ってこい。だが芝山の前で手の内を全部は見せるな。鑑定結果のうち、見せていいのは見せる必要がある分だけだ。乃木坂の名前は、芝山が自分で辿り着くまで出すな」
「はい」
「それと、早乙女を一人にするな。あいつにとってあの建物は、三年前の現場だ」
蓮田の声に、ぼやきの色はなかった。二十五年の銀行員が、部下を送り出す前に確認すること。リスクの所在と人の限界。カップを置く音が、デスクの上で小さく響いた。
四日後。月曜日の午前十時。警視庁の地下二階。
三年前の原本が、まだ、そこにある。
原本は、まだ、生きている。




