第31話「付箋の名前」
書類は、四センチの厚さだった。
茶封筒ではなく、段ボール製の文書箱。蓋に赤いスタンプで「保管期限:二〇二九年三月」と押されている。届いたのは六月二十三日、月曜日の午前十時過ぎ。三豊ビル北館の社内便で、第三課のドアの前に置かれていた。
佐伯弁護士の手配は正確だった。四谷三丁目の個人事務所から弁護士照会を出し、正式ルートで裁判所と検察庁の双方に記録の開示を求めてくれている。申請から十四日。世間の感覚では速いが、佐伯先生に言わせれば「遅い。本来なら十日で出る」。
柿沼浩一事件。
わたしはデスクの脇に文書箱を下ろし、蓋に手をかけた。段ボールの縁がざらつく。爪の先に紙の繊維が引っかかる感触。
三年前、B級探索者だった柿沼浩一が保険金詐欺の容疑で逮捕された。雷電リスク・マネジメントを通じた保険金請求に不正があるとされ、詐欺の実行犯として起訴。裁判の結果は無罪。しかし判決が出たとき、柿沼の社会的な生活はすでに壊れていた。探索者登録は逮捕時点で停止され、所属クランからは除名。報道は逮捕のときだけ全国紙に載り、無罪判決は社会面の端に四行で済まされた。
四十二歳。元B級。現在は足立区の町工場で働いている。佐伯先生が調べてくれた現住所のメモが、文書箱の蓋の裏に貼ってあった。
「多いね」
早乙女が横から覗き込んだ。文書箱の蓋を開けた瞬間、紙の匂いが立ち上る。裁判所の記録用紙は市販のコピー紙より厚い。古い書類特有の、埃とインクが混じった匂い。湿度を吸ってわずかにうねった紙束が、箱の中にぎっしり詰まっている。
「二百三十七枚です。佐伯先生がページ番号を振ってくれています」
早乙女が椅子を引き、わたしの右隣に座った。足を組まない。背筋を伸ばし、両手を膝に置く。書類を読むときの元刑事の姿勢。帳場で調書を確認していた頃の癖が、三年経っても体に残っている。
わたしは眼鏡を外し、レンズの汚れを拭いた。クロスの繊維がガラスの上を滑る。これから使うのは視力ではない。
【真贋鑑定】。
一枚目を手に取る。事件概要書。文字の上に青い光が這った。事実。二枚目、捜査経緯報告書。同じく青。
三枚目。
赤。
手が止まる。証拠調書の三枚目。柿沼の自宅から押収されたとされる「保険金請求書の控え」の記載。赤い光が文字の輪郭を縁取り、にじむように広がった。この書類は嘘をついている。押収日時か場所か、あるいはその両方が事実と異なる。
「宇津木」
早乙女の声が低い。
「三枚目。赤です」
「続けて」
四枚目、五枚目。青。六枚目から十二枚目も青が続く。捜査員の活動報告、証人への聞き取り記録。現場の捜査員は自分の目で見たことをそのまま書いている。嘘はない。つまり、改竄は現場レベルではなく、もっと上の段階で行われた。
十三枚目。
黒。
赤ではない。黒。証拠写真の添付報告書。柿沼の自宅で発見されたとされる書類の写真を、捜査記録に添付した際の経緯を記した報告。黒い光は赤より深く、紙面の上に影のように沈んでいる。
赤は虚偽。黒は意図的な隠蔽。この報告書を書いた人間は、何かを知っていて伏せている。
「十三枚目。黒です」
早乙女が息を止めた。二秒。短く吐く。それだけ。
残りの書類を一枚ずつ通していく。十四枚目から二百二十枚目まで。大半は青だが、黄色が三箇所混じる。黄は主観の誤認。悪意はないが、記憶違いか伝聞の歪みがある。捜査チーム内で情報が伝わるうちに、細部が変形していく。どの組織でも起きること。
目の奥がじわりと熱い。Tier2の反動は一ヶ月前に消えているが、二百枚以上を連続で鑑定すれば相応の負荷がかかる。右こめかみに鈍い圧迫感。額の生え際に薄く汗がにじんだ。空調の冷気が首筋に触れ、その汗を冷やしていく。
最後の束。柿沼浩一の供述調書。
青。
深い、澄んだ青。ページをめくるたびに同じ色が繰り返される。取り調べの全過程を通じて、この男は一度も嘘をついていない。「おれはやっていない」。調書の活字の上で、その言葉が青く光っている。
わたしは調書を閉じ、デスクに置いた。指先が微かに震えていた。疲労ではない。
*
早乙女が席を立たなかった。
文書箱の底に、もう一つの束がある。事件関連の内部資料。捜査チームの人事記録、異動命令書、懲戒処分の記録。
「読んでいいよ、あたしのところ」
声に起伏がなかった。許可でも覚悟でもない。事実の通告。早乙女灯里という名前が書かれた書類を、読め。
束の中から該当ページを四枚抜く。
早乙女灯里。当時二十五歳。警視庁刑事部捜査一課。柿沼事件の初動捜査に従事。捜査途中で担当を外され、その後、証拠隠滅の疑いで懲戒処分。同年中に依願退職。
四枚の書類に、【真贋鑑定】を通す。
懲戒理由の記述。赤。
証拠隠滅疑惑の調査報告。赤。
上長の所見。赤。
人事課の処分決定書。赤。
四枚全部。
「読みました」
早乙女がこちらを見ている。腕は組んでいない。膝の上で指を組み、爪の短い指先がわずかに白い。力が入っている。
「全部、赤です」
早乙女の喉が動いた。唾を飲む音。それだけ。泣かない。声も震えない。三年前に奪われたものの重さを、この人はとっくに量り終えている。量り終えたうえで、ここに座っている。
「知ってた」
「はい」
「知ってたけど、色で見るのは初めてだ」
空調のファンが低い音を立てている。デスクの上の書類の角が、送風で微かに揺れた。
*
蓮田が戻ってきたのは昼過ぎだった。
部長会議の帰り。マグカップを給湯室に置きに行き、コーヒーを淹れ直して第三課に入ってくる。
「どうだった」
わたしは改竄箇所をメモにまとめていた。三枚目の赤。十三枚目の黒。付箋を二枚、該当ページに貼ってある。
「証拠改竄の起点は二箇所です。三枚目の押収記録と、十三枚目の写真添付報告。この二点が原本と異なっていることを物証として押さえれば、改竄の事実は証明できます」
「原本は」
「警視庁の証拠保管庫です。無罪判決が確定した事件の証拠品は、裁判所の許可なく廃棄できません。原本は残っている」
蓮田がマグカップを口に運んだ。一口。顔をしかめる。冷めたコーヒーの味が気に入らないらしい。
「それで、実行犯は」
「書類だけでは特定できません。ですが、十三枚目を書いた人間は、当時の捜査チームでアクセス権限を持つ限られた人間のうちの一人です」
早乙女が口を開いた。
「乃木坂だよ。元巡査部長。あたしが外された翌日に、保管庫に入ってる。当時のアクセス記録を見れば分かるはずだ」
デスクの上で陶器が鳴った。乾いた音。
「原本との差異証明が先だ。入退室ログは後で追える。順番を間違えるな」
「分かってる」
「分かってるなら走るな。三年待ったんだ。あと数日は待てるだろう」
早乙女が黙った。腕を組み、椅子の背にもたれる。反論しない。蓮田の言葉に頷けないが、否定もできない。三年の重みと、数日の軽さ。この人にとって、その二つは同じ天秤には載らない。
わたしはメモを畳み、文書箱の蓋を閉じた。段ボールの蓋が紙束を押さえる。四センチの厚さ。その中に、一人の男の冤罪と、一人の女の名誉が詰まっている。
デスクの端。五枚の付箋。
『乃』の一文字が、空調の風に、かすかに揺れていた。
書類は嘘をついていた。
でも、書類の嘘は、必ず、どこかに原本を残す。




