第30話「第三課の蛍光灯」
記事は、六月十八日の水曜日に出た。
ダンジョン業界専門紙『探索ジャーナル』。紙面ではなく電子版の速報。見出しは短かった。
『大手クラン『雷電』、再保険取引に不正の疑い——複数の保険金請求にパターン化された異常』
河村葵の署名記事。事実のみを淡々と並べた構成だった。感情的な表現は一行もない。数字と日付と公開記録の引用。法廷で提出された証拠甲第七号への言及。ダンジョン庁への取材コメント。探索者協会の見解。
わたしは朝の通勤電車の中で、スマートフォンの画面をスクロールしていた。丸ノ内線の新宿三丁目駅を過ぎたあたりで、読み終えた。
記事に三豊ダンジョン保険の名前は出ていない。訴訟中であることへの配慮だろう。だが業界紙の読者は行間を読む。雷電の保険を引き受けている会社がどこか、知らない人間はいない。
四谷三丁目で丸ノ内線を降りた。地上に出ると、六月の朝の湿気が顔に貼りつく。梅雨の匂い。アスファルトに染み込んだ昨夜の雨が、靴底を通して伝わってくる。
スマートフォンが震えた。佐伯からのメッセージ。「記事、出ましたね。予定通りです」。短い。この人はメッセージも法廷と同じで、必要なことしか書かない。
*
翌日。六月十九日、木曜日。
第三課に出社すると、蓮田がデスクに足を組んで座っていた。マグカップが置かれている。中身はコーヒー。湯気が立っている。朝一番で淹れたらしい。珍しいことだった。この男は普段、コーヒーに手を伸ばしかけて止める癖がある。
「見たか」
「雷電の声明ですか」
「朝七時に出た。読め」
蓮田がスマートフォンを差し出した。雷電グループの公式サイト。プレスリリースのページ。
「弊社グループは、一部報道を受け、外部監査法人による特別監査を受け入れることを決定いたしました。コンプライアンスの透明性確保に努めてまいります」
短い。だが、この一文が意味することは重い。
「認めたのか」
早乙女が出社してきた。カーゴパンツにスニーカー。今日は黒のTシャツにジャケットを羽織っている。
「認めてない。だが外部監査を受け入れた。桐生の判断だろう。戦略的撤退だ」
「撤退? あの男が?」
「S級だからな。撤退の判断も速い。記事が出た時点で、法廷で争い続けるメリットが消えた。世論を敵に回すより、形式的に監査を受けて透明性をアピールする方が得だと判断した」
早乙女が椅子に腰を下ろした。スニーカーの踵が床を叩く。乾いた音。
「つまり、桐生は負けを認めたわけじゃない」
「認めてない。だが、俺たちの土俵では戦わないと決めた。それだけでも進歩だ」
蓮田がマグカップを手に取った。一口飲んで、今度は顔を歪めなかった。ブラックだが、淹れたてなら飲めるのだろう。
「訴訟取り下げの通知も来ている。今朝、佐伯先生から連絡があった。原告側代理人から裁判所に取り下げ書が提出された」
五億円の損害賠償請求。消えた。
「お前の勝ちだ」
蓮田の声は静かだった。ぼやきではない。事実の確認。二十五年のベテランが、部下の仕事を認める声の出し方。
わたしは首を振った。
「桐生は逃げただけです。外部監査の間に証拠を隠す。特別監査は形式的なもので終わる可能性が高い。雷電クランの本体にはまだ触れていない」
「つまり」
「始まりですよ。雷電の本体には二千名以上の探索者がいる。桐生が副代表で、代表の鶴岡はまだ一度も姿を見せていない。それに、水守達也がこのまま引き下がるとは思えません」
蓮田が目を閉じた。三秒。深く息を吐いた。マグカップを置く音。コーヒーの残り香が、デスクの上を漂う。
「やれやれ。引退させてくれないな、お前は」
*
午後。有坂が出社してきた。
六月上旬から復帰していたが、今日はいつもより早い。十三時前。手に紙袋を持っている。近くのコンビニの袋ではなく、新宿御苑前の珈琲豆専門店の紙袋。茶色い袋から、焙煎の匂いが漂う。
「あの……お疲れ様、です」
有坂は第三課のドアを開け、三人の顔を見回した。
「記事、読みました。雷電が……その、監査を受けるって」
「読んだか。まあ、座れ」
蓮田が顎で椅子を指す。有坂はカーディガンを脱ぎながら、紙袋をデスクの上に置いた。
「豆、買ってきました。蓮田さんがいつも飲んでるのと、同じ焙煎のやつです。あの、お礼、というか……」
「礼はいらん。お前も当事者だ」
「でも」
有坂は紙袋から豆の袋を出して、給湯室に消える。三分後、コーヒーの香りが第三課に広がった。挽きたての豆の匂い。いつもの自販機の缶とは違う。深い。甘い。焦げた砂糖のような匂いが、鼻腔の奥を撫でる。
マグカップが三つ、デスクに並んだ。蓮田の分、早乙女の分、わたしの分。有坂は自分の分を四つ目として持っている。
蓮田がマグカップを受け取った。一口、飲む。目を閉じる。
「……悪くない」
高い褒め言葉だった。この男の口から出る「悪くない」は。
*
夕方。
窓から橙の光が差し込む。六月の日が長い。十八時を過ぎても、まだ明るい。ブラインドの隙間から入る光が、デスクの上の書類を染めている。
蛍光灯が一本、ちらつく。天井の西端。第三課に配属されてから、ずっとちらつき続けているあの一本。修理の依頼を出したことは一度もない。総務に言えば翌日には替えてくれるだろう。だが誰も言わない。この部屋の住人が増えるたびに、あの蛍光灯は同じちらつきを繰り返してきた。ここにいる人間だけが知っている光。
わたしはデスクの付箋を見た。『桐』『黒』『雷』。三枚。橙色の夕陽に照らされて、黄色い紙が金色に見える。
引き出しから黄色い付箋を一枚出す。ペンを取る。右こめかみの重さはもう消えている。Tier2の反動は、一ヶ月で完全に回復していた。
四枚目。
『水』。
水守達也。東大法学部首席。勝訴率九十二パーセント。法廷で一度対峙した。あの男は、桐生が退いても消えない。次の戦場を用意しているはずだ。
付箋をデスクの端に貼った。そしてもう一枚。五枚目。
『乃』。
乃木坂誠。三年前の証拠改竄を実行した人間。早乙女の名誉を奪った手。まだ直接証拠はない。だが名前は分かっている。
五枚の付箋が並ぶ。
早乙女が隣に立った。いつの間にか。足音を立てない。元刑事の癖。
「次は何から?」
付箋の『乃』を見ている。表情は読めない。だが声に、かすかな硬さがあった。三年間蓋をしてきた名前。
「早乙女さんの冤罪です。三年前の借りを、返しましょう」
早乙女は何も言わなかった。二秒の沈黙。腕を組み、視線を窓に向ける。それから、小さく頷いた。一度だけ。口元が、わずかに引き締まる。覚悟を決める前の表情ではない。もう、決めている顔だった。
有坂がコーヒーのおかわりを注ぎに行った。給湯室から戻ってきて、蓮田のマグカップにコーヒーを足す。蓮田がそれを受け取り、一口飲んだ。今度も顔を歪めなかった。
「うまいな、これ」
「……よかった、です」
有坂が笑った。小さく、だが確かに。五月十五日の十九層で強張っていた顔が、一ヶ月かけて、ここに戻ってきた。
窓の外、橙の光がゆっくりと薄れていく。隣のビルの壁面に反射していた夕陽が消え、群青が広がる。東京の六月。夏至が近い。空はまだ完全には暗くならない。
蛍光灯のちらつきが、それに合わせるように一度だけ強く明滅した。第三課の四つのデスクに、白い光が落ちる。書類の山。マグカップ。付箋。ペン。それぞれのデスクに、それぞれの痕跡がある。
廊下から、エレベーターのチャイムが聞こえた。他の部署は、もう退勤している。十二階の西端だけが、まだ灯りを点けている。いつもの光景。
三豊ビル北館十二階、西端。損害査定部第三課、通称『例外案件係』。
今日もまた、この部署には、誰も欲しがらない書類が届く。
だが、もう、わたしたちは四人だ。




