第29話「記者」
「宇津木伊吹さんですか。『探索ジャーナル』の河村です」
電話が鳴ったのは、証人尋問の翌日だった。六月十日、火曜日の午前十時。第三課のデスクの上で、外線のランプが点滅している。
「はい。宇津木です」
「先日の法廷、傍聴させていただきました。お時間いただけないでしょうか。雷電の再保険取引の件について、確認したいことがあります」
傍聴席にいた記者。短い黒髪。メモを取り続けていた女性。声は若い。だが話し方に落ち着きがある。取材慣れしている人間の呼吸だった。
「記事にされるんですか」
「事実の確認をしたいだけです。掲載の判断はその後に」
わたしは受話器を肩と顎で挟み、手帳を開いた。
「明日の昼、お時間ありますか。新宿でお願いできれば」
「構いません」
*
六月十一日。新宿三丁目のコーヒーチェーン。二階の奥の席で、河村葵と向かい合った。
三十一歳。ダンジョン業界専門紙『探索ジャーナル』の記者。名刺を受け取る。角が少し折れている。鞄に無造作に入れているのだろう。
「単刀直入に伺います。雷電リスク・マネジメントの保険金請求二十三件に、不正の事実はありますか」
「わたしの口からはお答えできません。訴訟中ですので」
「法廷で提出された証拠甲第七号。ダンジョン庁のデータと【真贋鑑定】の一致率が九十八・七パーセント。これは、あなたのスキルが信頼できるということを示すために提出されたものですよね」
「そう解釈することはできますが、裁判所の判断に委ねています」
河村はコーヒーカップを両手で包んだ。爪は短い。マニキュアなし。ペンだこが右手中指にある。
「宇津木さん。あたしはあなたに情報提供を求めているわけじゃありません。法廷の公開記録と、ダンジョン庁の公開データだけで記事を書くつもりです。ただ、事実関係に誤りがないかの確認をしたい」
「事実関係の確認であれば、お答えできる範囲で」
「ありがとうございます」
河村がノートを開いた。ページの上半分に、すでにびっしりと文字が並んでいる。赤いボールペンで引かれた下線。付箋。この人は、法廷の一時間で、相当な量の情報を拾っている。
三十分の会話。わたしは訴訟に関わる情報は一切提供しなかった。だが河村が「確認」として挙げた事実は、全て正確だった。雷電の保険料が全契約の六パーセントであること。二十三件の案件が三つのパターンに分類されていること。法廷の公開記録だけでここまで辿り着ける人間がいる。
「最後に一つだけ。宇津木さんは、なぜ裁判で勝てないと分かっている証拠を出したんですか」
店内のBGMが切り替わる。河村の目は真っ直ぐだった。記者としてではなく、一個人として訊いている目。
「書類は、読む人がいて初めて意味を持つからです」
河村が少し黙った。それからペンでノートの端に何かを走り書きする。読めなかった。
店を出る。六月の日差しが、アスファルトを白く焼いている。新宿三丁目の交差点を渡る人波の中で、河村がわたしと並んで歩く。
「記事が出るのはいつですか」
「まだ決まっていません。裏取りが足りないところがあるので。一週間か、十日か」
「雷電側が動く可能性は」
「ありますね。だからこそ、慎重にやります」
河村が頭を下げた。記者にしては深い角度。礼儀正しい人間だった。踵を返し、人波に消えていく。
*
記事が出る前に、桐生が動いた。
六月十三日、金曜日。午前九時三十分。三豊ビル北館のロビー。わたしが出社してエレベーターに向かおうとしたとき、自動ドアの向こうに人影が見えた。
四人。
先頭に桐生鷹志。百八十三センチ。ネイビーのジャケットにノータイ。笑みを浮かべている。いつもの柔らかい表情。
だがその後ろに、三人の男が立っていた。全員がスーツ。だが体の作りが違う。
肩幅。首の太さ。立ち方。S級クランの幹部。戦闘者の体だった。
ロビーの空気が変わった。受付の女性が硬直している。警備員が一人、立ち上がりかけて、桐生の視線を受けて座り直した。
圧。物理的な力ではない。だがそこにいる人間全員が、同じものを感じていた。
「おはようございます、宇津木さん」
桐生が歩いてきた。革靴の音が、大理石のロビーに響く。
「お話がしたいんです。少しだけ、お時間いただけますか」
わたしは鞄の持ち手を握り直した。手が汗ばんでいる。返事をする前に、エレベーターの扉が開く。
蓮田だ。
白髪交じりの五十男が、桐生と幹部三名の前に立った。百七十センチに満たない体が、百八十を超える男たちの前に割り込む。コーヒーのマグカップを左手に持ったまま。
「蓮田さん」
「聞こえた。十二階まで声が響いてたぞ、お前ら」
嘘だ。ロビーとの距離は十二階分ある。聞こえるはずがない。だが蓮田は平然と桐生の前に立っている。
「行かせない」
蓮田の声は低かった。桐生に向けた一言。ぼやきではない。
桐生は笑みを崩さなかった。だが目だけが、蓮田を測っている。
「蓮田課長。わたしは暴力を振るいに来たわけじゃありませんよ。和解のご提案です」
「和解」
「訴訟の取り下げ。雷電関連案件の他社移管。例外案件係の存続保証。三つまとめて、お持ちしました」
条件としては悪くない。むしろ破格だ。三豊にとっては損がない。雷電の保険料十四億は失うが、五億の損害賠償リスクが消える。例外案件係も守れる。
「宇津木さん、どうですか。わたしは、あなたの仕事を尊敬しているんです。これ以上争っても、お互い消耗するだけだと思いませんか」
消耗。その言葉が、桐生の口から出る皮肉に気づいているのか。消耗させているのはお前だ、と早乙女なら言うだろう。
「断ります」
わたしの声は、自分で思ったより平坦だった。
「なぜ」
「二十三件の被害者がいるからです。装備偽装で適正な保険金を受け取れなかった探索者、罠の悪用で負傷させられた探索者、死亡偽装で遺族が苦しんだ案件。和解で訴訟が消えても、被害は消えない」
桐生の目から、笑みが消えた。
三秒。
完全に消えた。瞳の奥にあった余裕が引き、代わりに何もない平面が残った。表情筋が動かない。
口角も眉も、一ミリも動いていない。S級探索者。三十二層を踏破する男の、素の顔。
ロビーの温度が下がった気がした。六月なのに。
三秒後、微笑が戻った。元通り。完璧に元通り。
「わかりました。ゲームを続けましょう」
桐生が踵を返した。三人の幹部が続く。自動ドアが開き、四人の背中が六月の朝の光の中に消えた。
ドアが閉まる。自動ドアのガラスに、ロビーの蛍光灯が反射して白く光る。エアコンの稼働音だけが残った。
受付の女性が、ようやく息をつく。椅子の軋む音。警備員が額の汗を拭っている。
蓮田が隣にいた。マグカップのコーヒーに、口をつけていない。
「あの眼を見たか」
「見ました」
「二十五年やってきて、ああいう眼を見たのは初めてだ」
わたしは頷いた。手のひらの汗を、スーツの裾で拭った。指先がまだ冷たい。
「あれが、S級の目です」
蓮田が黙った。コーヒーを一口飲む。顔を歪めない。今日のは、熱かった。湯気がまだ立っている。
エレベーターに乗る。十二階のボタンを押す。扉が閉まる。密閉された箱の中で、わたしは自分の呼吸を数えた。四回。五回。指先の冷たさが、ようやく薄れ始める。エレベーターの機械音が、鉄の箱の中で低く唸っている。
桐生が笑みを消した、あの三秒間。あれが、わたしが見た、この男の本当の顔だった。




